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白い薔薇の淵まで Ⅴ
当たり触りない話をしている間に、ランチのコースは思ったよりずっとあっさりと終わって、当然みたいに二人分の会計をする桜庭の背中を見ながら、店員は自分達のことをどんな風に見ているのだろうと、一禾はその澄ました顔に聞いてみたくなった。
「出ようか」
「あ、はい。ご馳走さまでした」
「はは」
一禾が反射的に答えたそれに、桜庭はただそうやって笑っただけだった。何の含みもなかったけれど、何となく一禾は女の子たちと過ごす、いつもの延長みたいに声を出していたかもしれないと思ったら、なぜだか少しだけ怖くなった。そんな風に桜庭に思われたくないと思っているのかもしれない。一体何のために、そんなことは自分でも答えられないけれど。
「車で来てないんだね」
「あ、はい」
「じゃあ乗りなさい、大学まで送ってあげよう」
「・・・ありがとうございます」
桜庭の車は品のいい国産車だった。高級外車しか持っていない自分のことが、勿論、そのどれも自分でお金を出して購入したものなんかではなかったが、なんだかとても恥ずかしくなって、一禾は乗ってきた車を大学に置いてきて良かったと心底思った。
「お酒、飲んでなかったんですね」
「あれは炭酸水だよ、体に良いんだ」
自分の乗っているどの高級外車よりも、車のなかは静かで、少しだけ甘い匂いがした。それだけが桜庭に似つかわしくないと思ったけれど、それは玲子の匂いにも似ていたし、桜庭の妻の好みなのかもしれなかった。一禾は助手席からちらりと運転席の桜庭を見やった。
「どうしたんだい」
「・・・いや、別に、何でもないです」
何と答えるのが正解だったのか分からない。桜庭の前でいつも二択を間違えている気分がして、一禾は視線をフロントガラスに戻した。
「このまま、大学に行くんですか」
「他に寄りたいところがあるのかい」
「・・・いや、別に」
言いながら淀んで、一禾はどうしたら良いのか分からなくなる。いつもはそんなことは絶対に思わないのに、この完全な大人の前で、一禾はまるで言葉を知らない子どもみたいになってしまう、本当はもっと対等な言葉で話して分かり合いたいのに。自分のこの気持ち悪さを桜庭に理解して欲しいような、それは絶対に無理だと分かっているような、不思議な気分だった。
「なんだ、言いたいことがあるなら言いなさい」
「・・・ーーー」
まるで子どもをとがめるような言い方だと思ったけれど、この人の前で自分は子どもでいても許されるのかもしれないと同時に考える。一禾は小さく息を吸ったけれど、それは多分、自分に決心を与えるためなんかではなかった。証拠にまだ迷っていた。
「ホテルとか、行かなくて良いんですか」
「・・・どうして」
唇から溢れた音は、まるで自分のものではないみたいに不安定に揺れていた。
「そういう、目的だって言いましたよね、前に」
「言ったかな」
「俺、それでも良いんです、良いから今日ついてきたんですよ」
その方が楽だった。その関係の取り方しか知らなかったから、自分のいつものやり方で相対しているほうが、不安にならなかった。この不思議な感覚は、不安だったのかと一禾はそこでやっと理解して、理解できたら腑に落ちた感覚もあった。
「君が本当にそれを望んでいるんだったら良いけど、そうじゃないだろう」
「・・・そんなの、どうして分かるんですか」
「分かるよ、そんなことは」
言いながら桜庭がやけに確信的に微笑むのを、一禾は奥歯を噛みながら見ていた。
「そんなことをしなくてもい良いんだよ、君は本来。そんなことをしなくても、無条件でも、誰かに大切にしてもらうことはできるんだ」
「・・・無条件で?」
「そんな風に自分を差し出さなくても、良いんだ」
「・・・ーーー」
桜庭の言っていることは、一禾には分かるようで分からなかった。だって一禾の周りの人間はいつも、利害関係でしか成り立っていなかった。一禾が見目麗しい、若い男だったから、彼女たちには一禾に利用価値があった。それ以外に自分の価値等ないことは分かっている。偽物のはりぼてを一生懸命取り繕っても、桜庭みたいな本物の前では、いつも簡単に暴かれるに決まっていた。自分のフィールドで戦ったほうが、まだ勝算があった。一体何と争っているつもりなのか、一禾には分からなかったけれど。
「そんな風にしてもらったことはないのかい」
「・・・ない訳じゃない、と思いますけど、俺にも利害関係のない友達は、いるから」
勿論染は違った。染は友達という枠にはおさまらなかったし、利害関係がないとも思えなかった。あるとも思えなかったけれど。キヨの顔が浮かんだけれど、染のために利用しているのかもしれないと思ったら、キヨも数には入らないかもしれなかった。だとしたら利害関係のない友達なんていないかったし、そもそも友達なんて自分には必要ないはずだった。
「じゃあそれと同じだ」
「桜庭さんは違う」
「同じだよ。同じだと思っておきなさい」
言いながら桜庭はハンドルを握ったまま、前を向いてはははと小さく笑った。笑い事ではなかったけれど、一禾は何となくそれを見ながら肩の力が抜けるのが分かった。
「・・・じゃあ、また、会ってもらえますか」
「勿論、君がそうしたいのなら」
そんなことを軽々しく言ってしまう自分のことを、どうしてかとてつもなく卑怯なことをしているような気がして、一禾は喉の奥がひりひりするような気がして、耐えられなかった。ただ無条件に甘えていいことなんて、一禾は知らなかったし、そんなことを自分がしてもいいなんて思っていなかったから、本当はそれだけが言いたかったのに、随分遠回りしていたことに気がついていなかった。
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