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白い薔薇の淵まで Ⅵ

一禾はその三流の大学に時々理由なく行かないことがあった。染にはいつも厳しく行くように促しているが、実際に一禾はぎりぎりの単位と出席日数を確保しているだけだった。大学にでの勉強にはまるで興味がなかったから、単位が足りなくなって留年してもいいとも思っていた。自分のこの4年間は染を通わせるための4年間であり、それ以上でも以下でもなかった。高校3年生の時、本当ならばもっと難関大学を目指せたかもしれなかったが、染と違う大学に行く意味のほうが、その時の一禾にはもっとなかった。そうしてそれは多分、今でも同じなのだと思っている。ひとつも自分の選択を疑ったことはない。 「その幼馴染みは君の人格形成を酷く歪めているように思えるけど」 「・・・別に良いんです。俺たちのことはきっと、俺たちにしか分からないから」 桜庭が眉を潜めるのに、一禾はどうしてこの話をしているのだろうと思った。いつ、どうやって染の話に行き着いて、大学の選択の話などになってしまっているのか、多分自分で考えて話しているはずなのに、一禾には覚えがなかった。きっと染の話なんかするべきではなかった。今まで染のことをしかめっ面以外で聞いてくれた人などいないのだ。だからきっと桜庭にも分かるわけがなかったし、染のことなら自分だけが分かっていればいいだけのことで、染の話なんてすべきではなかった。 (ナツくらいか、でもまぁ、ナツの場合は違う意味も含まれてるけど) 染のために割いている時間や人生のことを、無駄だと言う人もいたけれど、一禾はそんな風に思ったことは一度もない。染のために差し出せるものがあるのだとしたら、自分は喜んで差し出すだろうし、それを厭わない自分のことを、むしろ誇りにすら思っている。 「君がその幼馴染みを慰めているみたいに、君は誰に慰められてるんだい」 「・・・そんなの必要ありません」 「必要なかったら、僕みたいな悪い人間には捕まっていないと思うよ」 「・・・桜庭さんはーーー」 言いかけて一禾は言葉を飲み込んだ。目の端に見知った景色が流れてきて、そろそろ大学が近いことが分かる。桜庭はそれを見ながら少しだけ口角を上げた。 「本当はもう疲れてるんだろう」 「・・・そんなことは」 「誰かのために生きるのはエネルギーがいる。君は君の人生を大切にすべきだ」 分かったようなことを言われても、一禾はそれに絶対に頷くことができないことを知っていた。それが真実でも、もう染のことを見捨てることはできないのだ。染は自分が側にいないと、きっとまたすぐにダメになるだろう。あんなことはもう繰り返したくないのだ。きっとその感情は桜庭には分からない。一禾がどんな風に地を這いつくばって、泥水をすすって生きてきたかなんて、桜庭にはきっと分かりっこないのだ。 (どうして話したんだろう、こんなこと誰にも理解されないと分かってるのに) それでも良かった。染でさえ理解してくれなくても、そんな必要がないと言われたって、一禾はきっとこれを止めることはできないのだ。染の側で生きることはきっと、自分にはこの形しか選べないことが分かっている。もうそれは、ずっと昔から。 「僕に話してくれたってことは、君だって本当はそれが異常だって、誰かに言って欲しかったんじゃないのかい」 「・・・そんなことないです、それに」 「それに?」 一禾は窓ガラスの奥に見える、よく知っている風景を見ながら小さく呟いた。 「異常なのは分かってますから」 国産車は静かに一禾の前から消えていって、一禾は小さく息をついた。桜庭と一緒にいると自分自身を取り繕わなくてよくて、偽物の自分を作らなくてもよくて、それが酷く心地がいいことを今日よく分かってしまった。染のことを分かってもらえなくても、きっと自分はまた桜庭に会いに行ってしまうのだろうなと思った。それが良いことなのか悪いことなのか分からない。でも確かに頭を撫でて慰めてもらう必要はあった。それはホテルにいても、女の子たちといても決して自分には与えられないものだった。 一禾は正門から生徒が行き交う大学のメインロードを通って、とりあえず講義棟に向かった。今から講義に出るつもりは毛頭なかったし、もうそろそろ終わる時間ではあったけれど、染に一禾がサボっていたことがばれると面倒くさいので、講義を受けているふりをせめてしなければいけなかった。こういうときに学科が違うと誤魔化しがきくので、やはり学科は変えて正解だったなと思う。一禾にとって無意味なことでも、染にとって意味があれば、それは一禾にとっても意味があることだった、結局のところ。その時携帯電話が震えて、見るとキヨから『終わった』と短いメールが届いていた。タイミング的にはベストだった。中庭にいることをキヨに伝えると、一禾は誰も座っていない中庭のベンチに座って、キヨと染を待っていた。 「オーイ、いちかぁ」 それからしばらくして、講義棟からキヨと講義を何個か受けたおかげで、すっかりよれよれになってしまっている染が出てきて、今日はちゃんと最後まで受けられたのだと一禾は察した。染は時々、大学まで一禾が送っているにもかかわらず、寸前のところで逃亡したり、休み時間に集合して話を聞いてみると、非常階段で震えて時間を過ごしただけの時もあったから、油断ならなかった。 「キヨ、染ちゃん、お疲れ」 「ううっ、さっき、出るときに、女に声かけ、られたぁ」 キヨの背中にくっついている染はそう言って、一禾の顔を見るなりしゃくり上げた。 「ってもちょっとだけだぜ」 「だって、触られそう、だったし!」 「えー、そうかぁ?」 キヨが首をかしげている。染は女の子の気配に敏感で、何年も一緒にいて、大体染のダメなゾーンを熟知しているはずのキヨが未だにぴんときていないことでも、涙を浮かべていることがある。 「はいはい、しんどかったのに頑張ったね」 一禾は俯いて抗議する染の真っ黒の髪の毛をぐしゃぐしゃと撫でた。染はこうして涙を溜めて俯くことで、誰かが自分を慰めてくれることを本能的に知っているのだと思った。でもその本能を作ったのは、本当は一禾自身だったかもしれない。 (俺にこんなことをしてくれる人はいない) 「ううっ、一禾ぁ・・・」 (それでもいいんだ、それでも) 一禾は自分自身に言い聞かせるみたいに胸中で呟いて、もう一度俯いて肩を揺らして、まるで自分がこの世で一番不幸みたいにいじける染の髪の毛をゆっくり撫でた。それでも、今後一度も自分をこんな風に慰めてくれる相手に出会えなくたって、染のための人生のことを、一禾は一度も無駄だと思ったことはないし、きっとこれからも思わないだろう。それは予測ではなく、最早確信なのだ。

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