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白い薔薇の淵まで Ⅶ

その日、一禾がホテルに戻ると、珍しく談話室には高校生コンビの姿がなかった。京義は部屋にこもっていることが多かったけれど、紅夜は談話室にいる率が高かったからだ。きっと紅夜は寂しいのが苦手で、一人で部屋にいることに耐えられないのかもしれない、と勝手に一禾は思っている。京義も紅夜もどうしてここに住むことになって、おとなしく夏衣の言うことなんか聞いているのか分からなかったが、きっとそれなりの事情があることは、例え詳しく説明なんかされなくても、一禾にも理解できる気がした。 「おかえり、一禾、染ちゃん」 「ただいま」 「ただいまー」 その日、談話室にいたのは夏衣だけだった。夏衣は黒淵の眼鏡をかけて、本を読んでいた。カバーの感じからして、今日の本はハードカバーの小説だった。染は談話室に入るなり、奥に進んでソファーに寝転がったが、一禾は買ってきた食材を冷蔵庫に詰める仕事が残っていたので、重い荷物をキッチンまで運んでいった。気をきかせてなのか、夏衣が立ち上がって、側まで近づいてくる気配が、背中越しにしている。 「手伝うよ、一禾」 「・・・ありがと」 染はそんなことを一禾には決して言わないが、一禾は言わないことをなんとも思ったことはない。他の人間がどう思うかなんてそんなことも、一禾にとってはどうでも良いことにすぎなかった。けれどその時、夏衣はただ寝転がっているだけの染のことを気にするわけでもなく、ビニール袋の中から、冷えた肉の塊を取り出して、冷蔵庫の中のチルド室を開けてその中に入れた。染はきっと冷蔵庫の中にチルド室があるなんてことすら、知らないだろうけれど、そんなことはどうでも良いことだった。 「あれ、一禾」 「なに?」 ふと夏衣が顔をあげて、一禾は目があって少しだけ心臓が跳ねた。夏衣の目の光彩は桃色をしていて、珍しいと思うけれど、それも一度尋ねたときに「遺伝だから」と笑っていた。遠くにいると以外と気にはならないが、至近距離で目が合うと、なんだか不思議な気持ちがして、胸の中がざわっとする。 「今日、女のところに・・・いや」 「なんだよ、行ってないけど」 夏衣が言い淀んで、一瞬言葉を切るのに、一禾は何にも知らないふりをして、スーパーの袋の中の野菜に手をかけた。夏衣にどう思われても、そんなことはどうでも良いことだった。一禾にとっては、染に何と思われるのかが全てで、他のことはなんでも良かった。女のことは隠していなかったが、何となく、別にやましいことがあったわけではなかったけれど、桜庭のことは誰にも知られたくないような気がしていた。 「・・・うーん、違うね」 「だから行ってないって」 「男だ」 「・・・ーーー」 その時夏衣が自棄に確信的にそう言うので、一禾はまた真正面から夏衣の目に突き刺されることになった。また無意味に心臓が跳ねて、一禾に危険を知らせる。何をしてても夏衣は一禾にとっては危険人物だったし、兎に角何も考えていなさそうな風を装っておきながら、奥が読めなくてそういう意味では苦手だった。夏衣は何にも言えなくなる一禾を見ると、にこりと微笑んだ。勝ち誇った笑顔だったと思う。 「図星だね、なんなの?趣向を変えたの?」 「・・・別に図星じゃないけど」 「そんな得体のしれないおっさんと遊ぶくらいなら、俺とデートしてくれればいいのにぃ。一禾は照れ屋だなぁ」 「・・・何それ」 一番得体の知れないのは自分だろうと思いながら、一禾はそれに言い返すことができない。言い返してしまうと、それを肯定していることになってしまうからだろうか。 「違うって言ってるでしょ、変なこと言わないでよ」 「隠しても無駄だよ、俺、鼻が良いから分かるんだ」 「・・・ーーー」 「一禾の匂いがいつものそれと違うことくらい」 もう何となく、何を言っても無駄なのだと、一禾は悟って、夏衣相手に反論することを諦めた。 「いつも女の子相手だと隠したりしないじゃん、どうしたの、急に」 「・・・もう、うるさいなぁ」 「染ちゃんはそんなことをしてる一禾のこと、軽蔑するかな」 「・・・黙ってよ、もう」 言いながら一禾は、もうそれは肯定していることと同じだと思ったけれど、それ以上何を言ったらいいのか分からないし、もう逃れたかった。その視線からも、追求からも。そもそもどうして、夏衣にそんなことを言われなければいけないのか分からない。部外者だから放っておいてくれと言ったらもっと酷いことになりそうで、面倒くさかったから、一禾はそれを我慢していただけで、本当は言いたかった。 「軽蔑しないよ、一禾がそういう人間だって知ってるもの」 「そういう人間ってなんだよ、別になにもしてないから、二人で会っただけだし」 「じゃあ言ってもいいのに、隠そうとするから」 「・・・ーーー」 夏衣の言っていることは真実なのかもしれないが、一禾にはもう何も考えられなかった。それでも何となく、ただ染にはそんな話はできないし、他の誰にも言えなかった。本当は一禾だって、俯いたときに頭を撫でて慰められたかったし、無条件で大丈夫だよと抱き締められたかった。でもそんなことを考えているなんてことを、誰にも知られるわけにはいかなかった。一禾は強くて、染を周りの害悪から守らなければいけなかったし、そのために一人でも生きていけなければいけなかったから。 「・・・一禾?」 その時染の声がして、一禾ははっとして顔を上げた。染はキッチンの向こう側から、一禾の方を見ていた。一禾は慌てて表情筋を意図的に緩めて笑った。 「どうしたの、染ちゃん」 「買ったコーラ、今飲んでもいい?」 「いいよ、どれだったかな」 一禾は慌てて視線をスーパーの袋に戻した。急に視線を反らしたせいで、ピントが合わなくて目の前がぼやけるくらい、心臓の音がうるさかった。きっと大丈夫、染に話は聞こえていなし、染は聞こえていたとしても、その意味まではきっと分からないに決まっていた。大丈夫と頭の中で繰り返すと、段々大丈夫だと思えなくなって不安が募ってくるから、逆効果だと思ってやめた。 「染ちゃんご飯前だよ」 「えー、良いじゃん、コーラだからさ」 一禾の頭の上で、夏衣と染が話をしているのが、自棄に遠くに聞こえている。一禾はもう一度だけ、頭の中で大丈夫だと唱えた。

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