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どうか彼をください
(同じクラスだ・・・)
4月のクラス分けを見たときに、それは奇跡だと思ったし、もっと言えば運命だと思った。今まではクラスが違ったから、廊下ですれ違ったときに、こっそり見やることしかできなかったけれど。尤も、彼の場合は、すれ違う皆が好奇の目を向けていたから、こっそりじゃなくても、見ていること自体おかしなことではなかったから、気持ちがばれる心配もなくて、それは周囲の偏見に感謝したりもした。
2年生の新しいクラスの扉を開けたとき、窓際の後ろの方の席にすでに京義は座っていて、肘をついてぼんやりと外を見ていた。いつも学校では寝ていることが多いと聞いていたけれど、その時はぼんやりしていたけれど、多分いつもよりは覚醒していたのだと思う。教室はうるさかったのに、彼の回りだけぽっかりと空いていて、彼の回りだけ音がしていなかった。同じクラスになったからと言って、すぐに話しかけに行けるわけでもなく、自分の席を確認して、何でもないふりを装いながら、彼の斜め後ろの席に座った。授業中、彼のことが視界に入る席で、良かったような悪かったような、不思議な気持ちだった。
(友達は好きだって言ったら、皆やめとけって言うけど)
(私は薄野くんが優しいことを知ってるから)
色んな噂も、結局噂の域を脱しないことだってことを、知っている。その根拠も裏付けも何もなくても、そう思えたらきっとそれが真実だった。その時、開いている窓から風が吹き込んできて、京義の真っ白にブリーチされた髪の毛がふわふわと揺れた。つまんなそうな目は半分閉じられかけていて、その表情は憂鬱そうに歪められている。教室の中は、新学期の騒々しさで、皆が皆浮き足だって、いつもの声の大きさの1.5倍は大きいのではないかと思うくらい、騒がしさで埋め尽くされていたのに、京義の回りだけは自棄に静かで、その分、気のせいなのかもしれないけれど、空気が澄みきって見えたから不思議だった。そこに自分も入り込みたいような、決して入ってはいけないような、そんな気さえする。
(何でか分からないけど、好きなんだもん)
なぜなのか分からなかった。ろくに喋ったこともなかったから、その人となりを理解しているわけでもなんでもなかった。でも見ているだけでこんなに胸が高鳴るのは、きっと恋のせいなのだろうと思った。それ以上のことは、考えられなかったから。
それから一ヶ月経っても、状況は変わらず、ただ前よりも近くからじっと見つめることができるようになっただけだった。それでも1年生の時よりはマシだったけれど。京義は他のクラスメイトと交わることなく、ただ異質にそこに存在していて、思ったよりは真面目に毎日学校に来ていたし、授業中寝ていることが多かったけれど、テストの順位はクラスでもいつも上位だった。
「京義ー、そろそろ帰ろうや」
隣のクラスの紅夜が授業が終わると京義のことを迎えに来る。紅夜のことはよく知らなかったが、京義とは違って、明るくて誰とでもすぐに仲良くなれる性格のように見えた。関西からやって来た転校生で、兎に角頭が良くて、いつも学年トップの成績をおさめていたけれど、京義や嵐といった問題児と仲が良かったから、それだけは不思議だった。紅夜がどうして京義と仲が良いのか、誰に聞いてもよく分からないが、なんだか近所に住んでいるらしく、登校してくる時も大抵ふたりでいたし、こうやって授業が終わると紅夜がいつも迎えに来る。傍目から観察しているだけでは、よく分からない関係だった。
「あ、和子 ちゃん」
出した教科書もろくに片付けず、ぼんやりと紅夜の横顔を見ていると、不意に紅夜が振り返って名前を呼んできたので、心臓が跳ねるかと思った。
「え、あ、なに?」
紅夜とはそれまでに、話したことがあったかなかったか、よく思い出せないほどだったし、自分の名前、それも下の名前を、そもそも紅夜が下の名前を知っていたことに吃驚しながら、そんなに軽々しく呼ばれるような間柄では決してなかったような気がするけれど、その時紅夜があまりにも自然にそう呼んだので、和子はもしかしたら自分はずっと紅夜と仲が良かったのかもしれないと錯覚したほどだった。
「E組ってもうテスト返ってきた?」
「えっ・・・えーっと・・・まだ、だけど」
「あ、そうなんや」
そう言うと紅夜はくるりと和子に背を向けて、まだ自分の席に座っている京義の方に向き直った。ほっとしたようなまだはてなが頭の中で回っているような、変な気分だった。すると京義がやっと準備が終わったのか、鞄を持ってのろのろと立ち上がった。今日もネクタイが緩んで歪んでいる。隣の紅夜は形が崩れていなくて、対照的だなとぼんやりと思った。
「なぁ、京義。勝った方がアイスやからな」
「んだよ、うるせぇな・・・」
「約束やからな」
鞄を肩にかけ歩き出す京義がすぐ側を通って、ふわっといい匂いが鼻を掠めた。京義の体からいつも香るこの匂いはなんなのだろう、香水とも違う、花のような不思議な匂い。その導線を目で追いかけるみたいに、その色の抜けた髪の毛がふわふわと泳ぐ様を見送る。
(今日も、カッコ良かったな)
見ているだけで満足なのだ、別に何も。望んでいないし欲しいと思っていない。今よりほんの少しでもいいから、話せるようになったら少しだけ嬉しいと思うけれど。
「和子ちゃんばいばーい」
「あ、うん、バイバイ」
出ていく直前に紅夜が振り返って笑って、まるでいつもそうやっているみたいに手を振ったのに、慌てて手をぎこちなく振り返すのが背一杯だった。
「なぁ、お前さ」
「なに?今からアイスキャンセルすんのなしやで」
「違ぇよ。あの女と知り合いなのかよ」
「あの女?和子ちゃん?」
「名前なんて知らねぇ」
「知り合いっていうか、京義迎えに行くときいつもおるから」
「・・・ふーん」
「なんやねん、なんかあんの?」
「別に、あの女いつも見てくるから」
何でもないことのように言いながら、京義がいつものように眠そうに隣で欠伸をして、紅夜はもしかしたらと少しだけ思ったけれど、それ以上はなにも言わないことに決めた。何故か、言葉にするとそれが本当になってしまいそうで、少しだけ怖かったからだ。自分でも何を怖がっているのか、説明しろと言われても説明できなかっただろうけれど。でもその時は確かに、言わない方がいいと思ったのだ。
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