234 / 302

脆き末裔の憂鬱とは Ⅰ

夢を見た。夢を見ている最中に、きっとこれは夢だろうと自覚できることが今までにも何度かあったけれど、多分それもそのひとつだった。どうして夢だと分かったのかと言えば、その時の自分はひどく幼くて、自分より更に幼い弟と一緒にいたからだ。 「できないー、できないのにー」 夢の中で弟は泣いていて、夏衣はその頭を撫でていた。自分達兄弟には父親も母親もいなかったから、きっとどこかにはいるはずだったが、夏衣は会った記憶はなかったから、それはきっと他の兄弟達も同じだったはずだった、その弱い弟の頭を撫でるのは、いつも兄である自分の役割だった。俯く弟はしゃくりあげながら大粒の涙を溢して、夏衣の腕にしがみついていた。 「そんなことではいけません。春樹様」 「もういやだ、やだよ」 「もう一度です、そんなことでは立派な跡取りにはなれませんよ」 「やだー」 夏衣の腕にしがみつく、小さき弟の腕を引っ張って、声を張り上げていたのは今よりもずっと若く見える、世話係の伊瀬だった。そういえば小さいときは世話係に何かと習い事に連れていかれたなと、夏衣は思い出しながら、腕の中から引き剥がされていく弟の前で、成す術もなく立ち竦んでいた。伊瀬はまるで自分の事など見えてないようで、春樹がお兄ちゃんと呼んでいるのに、確かに自分の腕を掴んでいるのに、そんなことはお構いなしに、小さな弟の胴体ごと持ち上げるような強引さで連れていってしまう。立派な跡取りとはなんだろう、そんなものこの世に存在するのだろうか。そんなものの重要性を説かれたところで、その小さき兄弟は理解できないことを、きっと伊瀬もわかっているはずだったのに。 「お兄ちゃん、お兄ちゃん」 春樹が遠くで呼んでいる。夏衣は追いかけなければと思うけれど、足が鉛のように重くて、そこから生えているみたいに両足が張り付いていて、全く動くことができなかった。そう言えば、小さいときは『お兄ちゃん』と呼ばれていた。いつから『兄貴』に変わったのだろう、もう覚えていないけれど。ぼんやりそんな関係のないことを考えていた。あの甘えたように舌ったらずの声で自分のことを呼ぶことは、もうないのだなと思いながら、夏衣はただそこに立って春樹のことを見ていた。 「夏衣様は聡明ですね」 「・・・え?」 不意に話しかけられて、夏衣は反射的に顔を上げる。今の夏衣の感覚とは違い、その時の自分の背が随分低いせいで、思ったよりずっと見上げなければ、その人の表情までは読み取れなかった。その顔の半分が光の加減でよく見えない。いつの間にそこに立っていたのだろう。春樹の頭を撫でているときはいなかったような気もするし、夏衣のすぐ近くに夏衣が気づかないだけでずっと立っていたのかもしれない。 「(トキ)」 「夏衣様が聡明で助かりますよ」 その時、白鴇は笑っていたけれど、それがどういう意味だったのか分からない。いつの間にか、障子は閉められて、春樹の泣き声は聞こえなくなっていた。 (変な夢だったな・・・) そこで目を覚まして、体を起こしたら、ひどく汗をかいていたから、嫌な夢だったのかもしれない。夏衣は首を回して、骨がぽきぽきと小さく鳴る音を聞いてから、ふっと壁にかかっている時計を見やった。まだ5時で起きるような時間ではなかった。ベッドに上半身をもう一度倒して、ふと隣を見やると、夏衣から逃れようとするみたいに京義が背中を丸めてベッドの端の方に引っ掛かって眠っていた。ちょうど落ちるか落ちないかのギリギリのラインを攻めるみたいな姿勢に口角が上がる。 (馬鹿な子) (京義が馬鹿な子で助かってる) まるで夢の中の白鴇の言葉をなぞるみたいにそう思って、夏衣はその体を半分抱えるようにして、ベッドの真ん中のほうに寄せた。京義の体は思ったより冷たくて、思ったよりもずっとずっしりと重たかった。ちゃんと生きている人の体温で、生きている人の質量をしていたことに、夏衣はひとりで安心する。そんなことをしても意味がないことを、そろそろ京義も学んで、諦めることができれば楽になるのに、未だに反抗的な目は変わらないし、隙があれば逃げようとして、そんなことが絶対にできないのが分かっているはずなのに、足掻いてみせる京義は滑稽だった。もしかしたら心の奥底ではもうすでに諦めていたけれど、諦めた事実を受け止められないから、自分の心の安定のために、まだ夏衣に抗い続けているポーズだけ取り続けているのかもしれないと思った。それも滑稽で、馬鹿な話だと思うけれど。降参できない気持ちには、少しだけ共感できるような気がした。 少しくらい触ったくらいで京義が起きないのは知っていた。一度眠ったら眠りの深度が深すぎて、戻ってこられないのは京義の病理の深さでもあると思っている、勝手に。図らずとも後ろから抱き締めるような格好になって、それが心地よかったから、夏衣は後ろから京義の白いうなじに顔を埋めるようにして目を閉じた。もしかしたらもう一度眠れるかもしれないと、少しだけ期待をして。 (そういえば、しばらく春樹に会ってないな、元気かな) (だから変な夢を見たのかな、変わったことなんて、春樹に限ってないと思うけど) (電話でも、しておこうかな) そういえば、最近春樹の声を聞いたのは、いつの頃だっただろう。耳に残ってるのは、夢の中に出てきた春樹の幼い舌ったらずの甘い声色だけで、今の春樹がどんな風に自分の名前を呼んでいたか、なんて思い出そうとしても、思い出せなかった、最後に会ったのはいつだったのだろう、それすらももう遥か昔の事のように思えて、思い出すことができなかった、不思議なことに。 「オイ」 「・・・あれ?」 腕が伸びてきて、くっついていた夏衣の頬にぎゅっと手のひらが押し当てられて、それで京義の冷たいけれど、生きている体温が夏衣から離れていく。 「起きたの、京義。ごめんね、起こした?」 言いながらもう一度くっつこうとトライをしてみたけれど、京義の腕に阻まれて、それ以上距離を詰めることはできなかった。それどころか、ぎりぎりと爪を立てられて、頬に食い込んでくる。 「いたいいたい」 「テメェ、くっつくんじゃねぇよ、気持ち悪ぃ」 「ひどいなぁ、俺はただ京義がベッドから落ちないように戻してあげただけなのに」 「うるせぇな、テメェが床で寝ろよ」 そんな言い合いをしても無駄だと分かっている京義は、Tシャツと短パンだけの格好でベッドからするりと抜け出してしまった。 「部屋に戻る」 「ごめんごめん、くっつかないから一緒に寝よう、ね」 夏衣がそこで笑って見せても、京義は背を向けただけだった。

ともだちにシェアしよう!