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脆き末裔の憂鬱とは Ⅱ

ホテルには経営していた頃の名残なのか、固定電話が存在していたけれど、その電話が鳴ることはほとんどなかった。理由は単純で、用事があれば個人の携帯電話にかける方が、余程早く話が進むからである。けれど時々電話が鳴ることもあって、そういう時は大抵ここの主人、夏衣に用事がある時だった。だからその日、一禾がひとりでキッチンで夕食の準備をしている時に電話が鳴った時も、一禾は出る前から、相手はきっと夏衣に用事があってかけてきたのだろうと思ったのだった。 「はい」 『・・・』 夏衣の名前を出した方がいいのか、それとも自分の名前を名乗るべきなのか、電話に出ながら一禾は考えた。時々夏衣宛にかかってくるこの電話は、自分が出たところで用件を解決できるわけではなかったけれど、それでも出ないという選択肢はなかった。どうしてかは分からなかったけれど。しかし出たところで、相手は何も話さないで、しばらくの沈黙ののちにぶつりと電話が切られた音だけが聞こえた。一禾は途切れた電話の受話器を耳から離してそれを見やった。もちろんもうそこから音はしていない。 「・・・無言電話?」 すごく多い訳ではなかったけれど、時々そういうことはあったから、一禾はまたかと思って受話器を下ろした。間違いでかけているのか、夏衣に用事があってかけてきたけれど、夏衣が出なかったから、無言で切っているのか、よく分からなかったけれど、一禾はその無言電話を引く回数が多かった。おそらく他の住人、染や京義は、例え談話室にひとりでいた時に電話が鳴っても、きっと電話には出ないので、圧倒的に一禾の母数が多いだけの可能性ももちろんあるけれど。 (これってナツに言うべきなのかな) 夏衣もこの電話に出る回数が多いに決まっていたから、無言電話の正体を知っているのだろうか、知らなければただ気味が悪いだけの話だったが。そう言えば夏衣にこの話をしたことがなかったことを、その日一禾はふと思い出したが、その事は大したことではないし、急ぎの用件ではないと一禾の中では処理されて、また記憶の海に沈められてしまって、一禾がその話を夏衣にすることはこれ以降もなかった。 「・・・くそっ」 春樹は小さく呟いて、手の中で携帯電話の通話終了ボタンを押した。そうして苛ついたように、後部座席の自分が座っている反対側目掛けて携帯電話を強く放った。投げられた携帯電話はガタンと扉の内側に当たって、クッションの上に戻ってくる。 「春樹様、物は大切に扱ってください」 「分かってるよ、うるせぇな」 「分かっておいでならそうしてください」 言いながら運転席に座っている伊瀬が、ハンドルを切って車はゆっくりと右に曲がった。春樹は肘を付いた格好のまま、はぁと伊瀬にも聞こえるように溜め息をついた。この男は小言ばかり煩くて、拙い言葉を使って言い返しても結局こうして上から押さえつけられるだけだった、いつも。伊瀬は春樹が小さい頃からの世話係だったし、悪態をつきながらもお互いによく分かりあっているつもりだった。少なくとも春樹は、仮面をつけていない人間を探す方が難しいあの屋敷の中で、数少ない自分の味方のうちでも信じられる人間の一人だと思っていた。だからそういうやり取りには慣れていたし、いつものことだった。 「夏衣様はご在宅ではなかったですか」 「またいつものアイツがでた。アイツ名前なんだっけ?」 「上月さん?」 「そう、身分の低い割りに気取った名前だよな」 「白鳥系列のお名前ではないですねぇ」 笑いながら伊瀬がそう言って、笑い事ではないのにと春樹は思いながら、口の中で小さく舌打ちをした。 「夏衣様とコンタクトが取りたいなら、直接携帯電話にかけられては?」 「やだよ。どうせ全部筒抜けだろ、兄貴の携帯なんか」 「内緒のお話がされたいんですねぇ」 「・・・そういうわけじゃないけどさ」 伊瀬はまた笑ったけれど、春樹は笑う気持ちには到底なれなかった。本家は夏衣の行動については全力で管理をしていて、ならばどうしてあんな遠い、東京の地で自由にさせているのか、春樹には到底分からなかった。そんなに管理をしたいのなら、本家に閉じ込めておけばいいし、きっと白鳥にはそのくらい造作もないことであることは明白なのに、あえて野放しにしながら、監視をしているなんて馬鹿みたいだと昔から思っていたが、春樹が何かのきっかけでそれを本家の人間に話し、本当にそうなってしまっては、目も当てられないから、だから春樹は思ってもそのことは誰にも聞くことができなかった。 (俺だったら絶対、閉じ込めておくのに) それでも夏衣が自由でいる方が安全なのか、自由だと思って監視下に置かれている方が安全なのか、春樹には良く分からなかった。信頼をおける伊瀬にすら、怖くて本当のことを聞くことはできなかった。春樹は言霊を信じていたからである。 「そういえば、院家の夢様がこの間、夏衣様に会いに行かれたとか」 「・・・夢が?なんで」 「さぁ、院家は賢司様が失踪されたとかで大変なことになっていますし、なにかご助言でも賜りたかったのかもしれませんが」 「あぁ、あの女装趣味の男、逃げたのか」 「なんでも夏衣様に婚姻を迫られたとか、院家も大変ですねぇ」 院家は御三家のうちのひとつだったが、白鳥の歴史に比べても、御三家のなかでも比較的新しく、その歴史は浅かった。それがおそらくずっと院家のコンプレックスでもあり、最近はお家騒動のこともあったのか、会合では俯いていて何も喋らなかったなと、春樹は年明けに会った院家の当主の顔、もう思い出すこともできないくらい、そのくらい印象の薄い男だったが、その男のことを思い出していた。 「伊瀬、気が変わった」 「なんですか?」 「夢のところに行く、院家に車を回せ」 「春樹様、これからお仕事ですよ」 呆れたように伊瀬は言ったが、車は進行方向を変えていた。伊瀬は小言は言うが、春樹の言うことを基本的には聞いてくれる。ふたりには主従関係があって、それを例え正論でもひっくり返すことができないのが、白鳥で生きているということだった。 「そんなもん俺がやらなきゃいけない仕事じゃないだろう」 「相手方は春樹様が出向かれるのをきっと心待にされていることと思いますが」 「なんで俺がそんな見知らぬやつを喜ばせなきゃなんねぇんだ」 「分かりましたよ。代わりの者を手配しますね」 言いながら伊瀬は小声で誰かと通信しはじめた。春樹がやるはずだった仕事をやってくれる人間を探しているのだろう。春樹は後部座席に座り直して、小さく息をついた。 「ところで春樹様、院家で何をされるんですか」

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