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脆き末裔の憂鬱とは Ⅲ
「お嬢様大変です!」
大声と共に扉が開く音がして、夢は長いスカートを引きずるように、座っていた椅子から立ち上がった。血相を変えた使用人が部屋の中に雪崩れ込んでくるのを見ながら、これはただ事ではないと思いながら、しかし冷静に小さく息を吸った。
「どうしたの、なにがあったの」
「春樹様が急に来られて」
「春樹さんが?どうして」
そういえばエントランスの方が煩い。夢は慌ててレースのカーテンを引いて、バルコニーに出た。庭師がきれいに整えたばかりの薔薇の生え揃った庭の真ん中に、黒の車が乱暴に止めてあって、その側には真っ黒のスーツを来た伊瀬が立っているのが見えた。確かにあれは白鳥の車である。伊瀬が側にいるということは、確かに春樹が来たという情報も信憑性が高いと、使用人のことを信頼していないわけではないが、夢は思って伊瀬の視線がこちらに向く前に、部屋の中に逃げ帰って、レースのカーテンを引っ張った。
「どうして春樹さんが・・・」
「お逃げください、お嬢様」
「・・・えぇ、そうね」
思い当たる節ならあったが、あの後、春樹とは確か会合で顔を合わせていたはずだった。春樹は白鳥には珍しいタイプで、昔の無邪気な少年の面影を残したまま、大人になってしまったような男で、年はそんなに違わないはずなのに、いつみても弟みたいで可愛かった。けれどなんとなく、その時春樹が突然屋敷に押し入るようにやってきたことが、自分にとってよくないことであることは、夢にも理解できた。
「裏口に車を回してくれる?」
「承知しました」
焦った声で使用人はそう言って、くるりと踵を返して夢の部屋から出ていこうとした。
「ひぃ」
しかし、それは無情にも、達成されずに終わった。
「・・・よぉ、夢。久しぶりだな」
開けっぱなしだった部屋の扉を潜って、そこから顔を覗かせたのは春樹だった。見たこともない仕立てのよいスーツを着ているのに、どこかチンピラみたいに見えるのは、春樹がにやにや笑っていたからだろうか。その目の色、白鳥が一番重きを置いている美しい桃色の光彩が、薄闇の中にきらきら輝いていて、夢は唾を飲み込んだ。使用人は腰を抜かして、床から立てない格好のまま震えている。ここで戦えるのは、もう夢だけだった。そんなことははじめから分かっていたことだったかもしれない。
「春樹さん、急にどうなさったの」
「いや、夢の顔でも見てやろうって思っただけ」
春樹はにやにやしながら入ってきて、夢の部屋の中にあったロココ調の椅子にどかっと腰かけた。
「お茶でも出せよ、気の利かねぇ女だな」
「急に来られては困ります。用事があるなら連絡を下さってからにしてください」
春樹の不遜な態度に夢はできるだけ胸を張って、そう答えたつもりだったが、春樹はそのにやついた表情をさっと無表情にして、立ったままの夢のことを首だけを回して見上げた。
「俺に命令するな、偉そうに」
「私はあなたの部下ではないので」
言いながら夢は廊下に顔だけを出して、廊下で震え上がって様子をみている使用人をひとり素早く捕まえて、お茶を持ってくるように小声で伝えた。春樹のぴりぴりした不機嫌な空気が部屋の中に充満しているが、夢にはまだ子どもが大声で威嚇しているだけにしか思えなかったので、白鳥本家の人間であるからといって、使用人が腰を抜かすほど、春樹に恐怖を感じることはなかった。白鳥はさすがに怖かったが、春樹がどれだけ吠えたって、春樹自身はまだ夢にとってはかわいい弟のままだった。
「用事がないんでしたら、お茶を飲んだら帰ってくださる?」
「・・・夏衣のところに行ったんだって、お前」
ぴんと空気が張り詰めるのが音になって聞こえてきた。くるりと夢は振り返って春樹のことを正面から見やった。春樹は似合わないロココ調の椅子の上に、足を開いて座っている。その表情は、どこかで見たことがあると思った。会合で一番端に座っていた、白鳥にそっくりだった。
「・・・ーーー」
「何のために行った?勝手に夏衣に接触するのはルール違反だろ?」
会合が終わった後、2月のまだ寒い風が吹いていた時だった。夏衣の体を覆っていたオーバーサイズの服が、必要以上に風に煽られて、そのまま夏衣ごと飛んでいってしまいそうなほど、夏衣は存在感の薄い人だった。柔らかい笑顔で良く笑ったけれど、それはどこか寂しそうで、悲しそうだった。言えなかった、とても。春樹には夏衣に話したことなんて、ひとつも言えるはずがなかった。
「・・・会合に来られてなかったから、顔を見に行っただけです」
声が震えているのが、自分でも分かった。
「そっか。そんなことだろうと思ったよ」
春樹は椅子から立ち上がると、すたすたと夢の方に歩いてきて、そのまま夢の髪の毛を掴んだ。強い力で引っ張られて、ぶちぶちと耳元で髪の毛の抜ける音がした。
「お嬢様!」
誰かが叫んだのが遠くで聞こえた。目を開けるとすぐ目の前に、春樹の顔があって、その美しい桃色の中に、痛みのせいで生理的に沸いてきた涙で目を一杯にしている自分が写っている。
「調子に乗ってんじゃねぇぞ。ブスが」
「・・・ーーー」
「俺の許可なく夏衣に近づくな。殺すぞ」
「・・・やめて」
ぽろりと目頭から涙が落ちていって、絨毯に吸い込まれていった。惨めな気分だった。これ以上なく。それ以上に夢にとってはまだ春樹は、かわいい弟だったから、そこで女の子に対して暴力を振るうことを、全く躊躇う素振りのない春樹のことが、不思議で信じられなかった。目を一杯に開いて、自分の髪の毛を掴んで離さない男のことを確認しようとするのだが、それは何度見ても確かに春樹だった。小さい頃皆で鬼ごっこをしたときも、かくれんぼをした時も、いつも一番に捕まったり見つかったりするから、いつも泣きべそをかいていた、その度にいつも夏衣に頭を撫でられて慰められていたはずの。
(こんなの、春樹じゃない)
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