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脆き末裔の憂鬱とは Ⅳ
春樹は夢の髪の毛を掴んだまま、腕を振り払うようにして、夢はそこで一旦春樹の暴力から解放された。思わず床に座り込んでしまった夢は乱れた髪の毛の間から、春樹を見上げた。それでもまだ、夢は春樹のことを信じていたし、これは悪い夢なのではないかとまで思っていた、不思議なことに。
「お嬢様!大丈夫ですか?」
使用人の声に耳鳴りがする。夢は手のジェスチャーだけでもう黙っていることを使用人に告げた。自分に対してここまでするのだ、他の人間に春樹が何をするのか、夢はもう想像できなかった。春樹の右手の指の間に絡まっている自分の栗色の髪の毛が、自棄に鮮やかに見えてゾッとする。
「・・・夢、お前夏衣と結婚したいんだって?」
一体誰が、あの時海岸で夏衣との会話を聞いていたのだろう。帰って両親にしか話をしていないし、誰かに情報を掴まれたら、この計画は台無しになるから、東京まで危険を侵してひとりで出かけたはずなのに。一体誰がその秘密を春樹に教えてしまったのだろう。夢は考えを巡らせたけれど、自分が口を割っていない以上、夏衣を疑うしかなかった。けれどあんなに柔らかく寂しそうに笑っていた夏衣が、自分のためにできることはないかと言ってくれた夏衣が、そんなことをするとは思えなかった。
「ほんとにそんなことできると思ってんのか。思い上がるなよ、御三家の分際で」
「俺たち白鳥に意見するな」
俺たち、と春樹は言ったけれど、その時他の誰を想像していたのだろう。夏衣はそこに入っていたのだろうか。夢はずきずきと痛むこめかみにそっと指で触れてみると、そこがわずかに濡れていて、見ると指に赤いものが付着していて、すぐにそれだと理解した。
「・・・分かっています」
「いや、分かってねぇんだよ、お前は」
言いながら春樹が笑って、やっぱりそれは白鳥そっくりだったから、夢は嫌でもそれがもうかわいい弟なんかではなくなっていることを理解しなければいけなかった。
「失礼いたします。お嬢様、お茶を・・・ーーー」
その時運悪く、夢が先程小声で手配した紅茶が届けられて、夢は慌てて使用人に部屋を出ていくように伝えようとしたが、床から立ち上がることができなくて、一瞬反応が遅れてしまった。
「ひっ!お嬢様!お嬢様、なにが・・・ーーー」
使用人が持ってきた紅茶をテーブルの上に乱暴に下ろすと、夢のところまで走ってこようとした。夢はその使用人の肩越しに、春樹がそのカップを掴むのが見えた。
「頭を下げて!」
夢はそう叫んだけれど、春樹の方が幾分か早かった。ひゅっと音がして、紅茶の注がれたままのカップが飛んできて、使用人の背中に当たった。
「あっ!うっ」
呻いて彼女は床に倒れた。カップは破片になって、辺りに散らばっていた。夢は慌てて立ち上がって、今度は立ち上がることができた、震える足で彼女のところまで走った。
「服を脱ぎなさい、火傷をするわ」
「おー、ナイスコントロール」
自分のしたことなんて全く意に介した様子がない、春樹がふざけた調子で言って、もうひとつのカップに入った紅茶を飲んでいる。夢は使用人のワンピースの背中のファスナーを全部開けたけれど、その下の皮膚が赤く染まっていて、それ以上指を動かすことができなかった。
「春樹さん、もうお帰りになってください」
「・・・俺に命令するなって言ってるだろ、お前も飲むか?ポットごとくれてやってもいいんだぜ」
そう言って春樹はポットを掲げて笑った。夢が立ち上がると、その足に踞ったままの使用人が手を伸ばして、夢のロングスカートを引っ張った。
「お、お嬢様、お止めになってください、もう」
「お前よりもその使用人のほうが賢いな、分かったらもう白鳥に逆らうな」
春樹はがちゃんと乱暴にテーブルの上にポットを下ろすと、その衝撃で皹でも入ったのか、ゆっくりと中の液体がポットから漏れ出して、テーブルを伝って絨毯にぽたりぽたりと時間をかけて落ちていった。夢はそれを見ながら、いい加減現実を見なければいけないのだとようやく自覚した。ここにはあの頃一緒に庭を走り回った春樹はもういない、下らないことで泣いては夏衣の影に隠れていたかわいい弟は、もうどこを探してもいないのだということを、夢は嫌でも自覚しなければいけなかった。
「春樹様」
その時、静寂に違った声がして、夢はゆっくり部屋の入り口に顔を向けた。もうどこが痛かったのかも忘れていた。
「おぉ、鴇。なんだ、お前が出てくるなんて」
てっきり伊瀬がそろそろ止めに来たのだろうかと思ったが、そこにいたのは白鳥の字継ぎの中でも、当主にひどく可愛がられていると噂の白鴇だった。夢も本家に出向いたときに、遠目で白鴇のことを見かけたことがあって、本家の人間とはまた違う、全く別物のオーラを放ってそこにあったので、兄の賢司にあれは誰かと聞いたら、白鴇だと教えてもらったことがあった。その時から随分時が経っているはずなのに、夢の記憶の中で見かけた白鴇のままだった。まるでそこだけが時間が経っていないみたいだった。
「そろそろお開きにしましょう。春樹様」
白鴇は髪の毛を抜かれて血を流している夢も、背中に火傷をおっている使用人にも目をくれることなく、まるでそこには存在していないみたいに、ただ優雅に紅茶を飲んでいる春樹に向かってまっすぐに歩いていくと、その足元にまるで練習していたみたいな全く無駄のない動作で跪いた。そうして春樹の右手の指に絡まったままの夢の髪の毛を、一本一本丁寧にほどいて、その手のひらを胸ポケットから出した白いハンカチで撫でるように拭いた。まるで白鳥だ、夢はそれを見ながら思った。白鳥がそんな風に甲斐甲斐しくされている場面など、見たことはなかったけれど、瞬時にそう思った。まるで白鳥だと。
「そうだな、帰るか」
夢が促しても全く頷かなかった春樹だったが、白鴇がそう水を向けると、すんなりそれには従って、夢のロココ調の椅子からひょいと立ち上がった。
「じゃあな、夢。また気が向いたら来るわ」
そうして春樹はまるで、夢の部屋でただ向かい合って紅茶を飲んでいただけみたいな軽さで笑うと、手を振って白鴇の前を歩いてあっさりと、夢の部屋から出ていった。緊張の糸が切れたように、使用人の泣きじゃくる声が耳鳴りのように聞こえる。もうあのかわいい弟には会えないのかと思ったら、夢はその事に一番胸が痛んで、涙が出た。
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