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脆き末裔の憂鬱とは Ⅴ

その日、秋乃が仕事を終えて本家に戻ってくると、いつも静かなそこが少しだけ騒々しい雰囲気に包まれていて、何かあったのだと門を潜った時には勘づいていた。嫌な予感はいつも当たる、最近は自分の周辺は落ち着いていたから、余計なことを考えなくても済んでいたけれど、平和な時間は長くは続かないことを、秋乃は誰よりも理解していた。だって自分達は白鳥だったから。 「黒崎、何かあったの、騒がしいけれど」 ジャケットを脱ぐと、玄関で秋乃の帰りを待っていた黒崎が、秋乃のジャケットを無言で受けとる。聞くのは怖いけれど、それを聞かずにはいられなかった。 「春樹様が帰っておいでで」 「春樹が?それがどうかしたの」 「なんでも、遊楽院様のお屋敷に勝手に出向かれたそうで」 「夢ちゃんところに?なんで」 純粋な疑問だったが、黒崎は少し言葉を濁して答えにくそうな素振りを見せた。春樹のところに行くのが早い、と秋乃が分かって進路を変えるのに、黒崎は黙ってついてきている。 「秋乃様、今はあまり春樹様とお会いにならないほうがよろしいかと」 「どうして。春樹は何の用事があって院家なんて行ったの」 秋乃は春樹の部屋まで急ぎながら、春樹がそこにいるかどうかは分からなかった、なにせ屋敷の中は広くて、時々秋乃でも案内がないと迷ってしまうくらいだったから、もう一度、無駄だとは分かっていたけれどそう後ろからついてくる黒崎に聞いてみた。 「・・・私の口からは申し上げられません」 「そう。春樹に直接聞くから構わないわ。春樹は部屋にいるの」 白鳥の使用人はそうして時々口を濁す。そういう時は大抵良くない話のことが多かったから、やっぱりかと秋乃は誰に言うわけでもなく、ひとりで思って黒崎には聞こえないように、小さく舌打ちをした。秋乃は急ぎ足のまま、廊下を進んで、スピードを落とさないで廊下の角を曲がった。 「なんでも不浄があったとかで、ご入浴されています」 「・・・不浄?」 院家に行ってそんな物騒なことに巻き込まれたのだろうか、秋乃は思わず聞き返して、黒崎はきっとこれ以上話すことができなかったことを、後から思い出していた。 「秋乃様」 その時、秋乃が一瞬振り返って黒崎を見た時、前方から声がして、秋乃はそちらに視線を戻した。廊下の真ん中を塞ぐみたいな格好で、白鴇が立っていて、秋乃は喉の奥が急に狭まった気がした。白鴇は当主付きの役人だったから、いくらその孫娘に当たる秋乃であっても、普段気軽に会ったり話したりする間柄ではなく、白鳥の眠る最奥の部屋で、白鳥と共に政に噛んでいるらしい。その白鴇がこんな風に本家の中心をうろうろしているなんて、どう考えても異常事態だった。 「秋乃様、お勤めご苦労様でございます」 「鴇、どうしたの。何してるの」 「春樹様と院家のお嬢様にご挨拶に行っておりました」 「・・・ーーー」 春樹だけではなく、白鴇も噛んでいる。これは春樹の独断ではないのか、秋乃は喉が狭くて上手く呼吸ができないせいで、酸素が足りなくなる頭で必死に考えた。これは一体なんだ、なにが起きている。良くないことではないように、と祈るしかなかった。 「夢ちゃんに何の用だったの」 「・・・それは私からは申し上げられません」 白鴇はにっこり微笑んで、先程黒崎が呟いたことと同じことを言った。秋乃はちらりと後ろで小さくなっている黒崎を見やったが、黒崎は小さく首を振るだけで、秋乃の問いには答えてくれそうもなかった。一体何があったのか、やはり春樹に直接聞くのがどう考えても早かった。 「そう、分かった。春樹はもう部屋にいるの」 「はい。でも今、お会いにならないほうがよろしいかと」 「会うか会わないかは自分で決めるわ、案内して頂戴」 黒崎と全く同じことを言う白鴇から、何か情報を引き出すことを、秋乃は早い段階で諦めている。白鴇は確かに当主付きの役人だったが、この家では白鳥が一番強く、一番尊いもので間違いがなかった。だから白鴇は自分に意見をすることができても、物理的に止めることは不可能だった。それは秋乃が一番良く分かっていたし、多分白鴇も分かっていた。だからそれは白鴇の提案であって、秋乃に対する命令ではなかった。だから秋乃はそれに従わないという選択肢を取ることができるのだった。それがせめてもの秋乃の足掻きだった。 「承知致しました」 その証拠に、白鴇は秋乃に二度、同じ『提案』はしなかった。 白鴇が案内した部屋は、春樹が使っているいつもの部屋ではなかった。屋敷の中は広いので、秋乃も自分の部屋が何ヵ所にもあり、気分で使い分けたりしているが、春樹もそうだったのかもしれない。白鴇は白鳥の使用人が皆そうするみたいに、障子の前で膝をつくと、障子に手をかけた。 「春樹様、白鴇でございます。秋乃様をお連れ致しました」 「秋乃?なんだよ、入れ」 中から春樹のやや無愛想な声がして、それはいつも秋乃が聞いていた春樹の声そのものだったから、秋乃は少しだけほっとした。春樹に会うのは久しぶりだった。秋乃と春樹はきょうだいだったし、同じ屋敷の中で暮らしていたが、春樹は大学生であり、秋乃は秋乃で毎日白鳥の仕事を手伝っていたから、屋敷の中が広すぎるという理由以外にも、生活リズムが違いすぎて、顔を合わせることはほとんどなかった。こうして意図的に会う時間を作らなければ、普通に過ごしているだけでは、お互いに顔を見ることすらしない。だから春樹に会うのは、考えてみればその時随分と久しぶりだった。 「失礼致します」 膝をついた格好のまま、白鴇が障子を開く、その畳の部屋にはほとんど何もなく、ただ中央にぽつんと布団が敷いてあるだけだった。春樹は風呂上がりなのか、緩い浴衣を着た格好のまま、タオルを頭の上に乗せて、片手で携帯電話を弄っているようだった。頭を下げている白鴇と黒崎の丁度間に立つ秋乃と、顔を上げた春樹の目が合う。春樹だった、それは、秋乃の知っている。 「なんだよ、秋乃、何か用か」 「・・・いや」 秋乃はそこで一旦言葉を切って、その続きを伝えることを躊躇した。ちらりと白鴇を見ると、まだ春樹に向かって頭を垂れた格好のまま動かない。

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