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脆き末裔の憂鬱とは Ⅶ
まるでついさっきの暴行が嘘みたいに、秋乃の勘違いだったとでも言いたげに、春樹はにっこりと微笑んだ。それは弟の顔だった、紛れもなく。弟の顔を忘れるわけがなかった。こんなに近くにいるのに。忘れるはずがなかった。それでも秋乃は本能的に、春樹から距離を取ることを考えることを止めることができなかった。自分の中の一番動物に近いところが、秋乃に危険信号を送っているのが見えているのだ。その相手がまさか弟だなんて、あんなに弱くて細い腕をしていたはずだった、いつも後ろをついて回っては泣いてばかりいたはずだった。確かにそこにいたのは、秋乃のよく知っているはずの弟だったのに。
「ごめんな、秋乃。そんな怖い顔するなよ、そうだ、卯月を呼ぼう。あいつに診てもらえばいい」
春樹の手がこちらに伸びてくる。秋乃はまだ呼吸が覚束なく、十分に酸素が回らない頭で、思わずそれを振り払っていた。
「触らないで!」
「・・・びっくりしたぁ、急にでかい声出すなよ」
目を丸くして、春樹はさっきとは全く違う、甘えた表情で秋乃のことを見ていた。それは確かに秋乃の知っている弟の顔だった。混乱する、確かにさっきその弟は全力で自分の首を絞めた。本当に殺そうとしたのかもしれない、それはそれくらい殺意を持った恐ろしい指だった。絶対に騙されてはいけないと思うのに、目の前の弟はまるでそんなことは知らないとでも言いそうな無邪気さと無知のままで目を丸くしている。秋乃は息を整えながら、黒崎に半分もたれ掛かるような格好で立ち上がった。これ以上ここにいてはいけないことは、良く分かっていた。本当なら、ここに来るべきではなかった。黒崎や白鴇が自分を止めたように。
「・・・帰る」
「お気を付けて、秋乃様」
「えぇー、もう帰んのかよ、もうちょっと話していけよ」
弟が弟の顔をして、秋乃にまとわりついてくる。それを乱暴に振り払って、秋乃は春樹の部屋の障子を閉めた。まだ息が上がっている。耳元で煩いくらい、一生懸命吸っているはずなのに、それが全く頭に回ってこない。何も考えたくないけれど、考えなければいけないことは分かっていた。秋乃は黒崎にもたれ掛かるようにして、ゆっくりと長い廊下を歩き出した。
「・・・黒崎」
「秋乃様、卯月先生を呼びましょう。首、血が出ています」
「そんなことどうでもいいのよ」
どうでもよかった、さっき確かに春樹もどうでもいいと言ったような気がしたが、何のことだったのか覚えていなかった。
「いつから、いつからあんなことに。前は確かに、泣いてたのに」
「・・・最近様子がおかしいんですよ、春樹様。前よりずっと、精神が不安定に見えます」
黒崎は目を伏せて、廊下の板間を見ながら秋乃のゆっくりした歩調に合わせた。屋敷の中は多くの人間がいるはずなのに、いつの間にか静まり返っていて、誰の気配も感じられなくなっていた。そんなことは何も知らなかった。誰かが情報操作をして、秋乃の耳に入れないようにしていたのだろう。そうでなければきっと、黒崎や秋乃についている他の使用人はきっと秋乃を信用して、春樹の変化を教えてくれるはずだったから。秋乃はそこまで考えて、本当に教えるか、実際に黒崎は秋乃には今日まで春樹の変化に気づいていたのに、何一つそれを秋乃には言わなかった。半分黒崎に身を委ねていることが、急に秋乃は怖くなった。
「信じたくはないのですが、春樹様のおっしゃったことも、真実かもしれません」
「・・・どれが?」
考えたくはないが、春樹の言っていることで、秋乃が重要だと感じたことは、幾つかあった。
「・・・白鳥様が身辺整理をされているというお話です」
「まさか、あのじじいは殺したって死なないわよ」
信じられなかった。秋乃の目には、確かに老いたといえど、白鳥はまだ十分現役に見えた。本当に白鳥が死んで、継承の話をすることが、この後あるのだろうか、その時自分は一体何を言えばいいのだろう。あのかわいそうに狂ってしまった弟相手に。
「申し訳ありません」
「・・・別にあんたが謝ることじゃない」
言いながら、秋乃は誰を信じたら良いのか分からなくなった。この屋敷の中の誰も、自分の味方ではないような気がしていた。夏衣と話がしたいと思ったけれど、夏衣と通信する手段は絶たれているか、それか常に傍受されているかなので、きっと思ったようには話せないことが分かっていた。夏衣はずっと遠くにいて、本家でこんなこと、春樹が狂ってしまってもう自分達の愛した弟ではなくなってしまっていることも、白鳥がもしかしたら遠からず死ぬかもしれないことも、知る由もないだろう。
(夏衣さん、私は、どうすればいいの)
それに言葉を返してくれる、夏衣はここにはいない。
秋乃が逃げるように部屋を出ていったのを、春樹はしゃがんだままの格好で見送っていた。まるでどうしてそうなってしまったのか、分からない幼子みたいに。ぼんやりとした桃色の目は、秋乃が消えた障子の向こうを、もう見えなくなっていると分かっているはずなのに、ずっと追いかけている。白鴇はしばらく黙って、春樹のその小さい後頭部を見ていた。暴力と無邪気さは彼の中で一枚岩ではないようで、度々こうして彼の精神を蝕んでは、壊そうとしているようにも見えた。
(まぁ普通の精神じゃ、白鳥なんて巨大なもの背負えないよな)
(まだ保ってるほうだと思うけど、秋乃様には刺激が強すぎたか)
春樹にも秋乃にも夏衣にも、そういう意味では同情はするが、どうしようもない。それがこの家に生まれたものの宿命で、白鴇はそれを代わってやることはできない、白鴇だけでなく、他の誰もそれは不可能なことだった。ただ他の人間よりも白鳥の深部に長く触れているから、白鴇は他の人間より、ただその事について耐性がついているだけだ。きっと春樹も時期にそうなる、そうすれば一々そこに感情など付随しなくなる、そうすればきっと春樹もこんな風に、何よりも自分自身の良心に惑わされなくてよくなる。白鴇には確証があった。誰よりも、そうなる将来が見えていた。だから無責任に大丈夫だと思えていた。
「春樹様、髪の毛、そろそろドライヤーで乾かしたほうがよろしいかと」
「・・・いや」
ぼんやりとしていたはずの春樹は、やけに明確にその時の白鴇の提案を断って、そうしてゆっくりとした動作で振り返って、後ろに座っていた白鴇を見た。その瞳は白鳥占有の桃色の不思議な光彩で、白鳥には昔から、その目の色には力が宿ると信じられていた。白鴇もその迷信めいた噂を、信じていたわけではなかったけれど、こうして本家の人間と対峙していると、ふとした瞬間にこの人は他の誰とも違う、唯一無二なのだと無条件で思わせてくる力があることを、認めざるを得ないと思うことがある。
「汚れたから、もう一回風呂入るわ」
そうして爪の間に挟まった、彼の姉の血液を、少しだけ舌で嘗めるようにした。
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