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君の鳥は歌える

『ミモザ』は今日も静かだった。いつ来ても客はまばらで、本当に売り上げが上がって、家賃や従業員の給料を払えているのかと不安になるほどだった。毎月ちゃんと京義の口座にはバイト代が振り込まれていたから、それは京義の取り越し苦労の域を越えなかったが。 「よぉ、京義。ご苦労さん」 京義が『ミモザ』に到着するのはほとんどの場合、夜になりかけの時間帯が多かった。そうして夜の時間帯は、いつも大体片瀬がシフトに入っていることが多かった。最近はキヨの顔もちらちら見かけるが、その裏にある感情のことを、どれだけあからさまにされても、京義はまだ知らないでいた。いつも通り裏口から入ると、休憩中なのか狭いスタッフルームにいる片瀬にそう声をかけられて、京義は黙ったまま少しだけ会釈をした。片瀬は大柄な男で、よく喋るしうるさくてはじめの頃は苦手だったけれど、もういい加減ここでのバイトも一年を過ぎて、大分その人となりには慣れてきた。適当な片瀬のお喋りに適当に合わせておけば、それで構わないことが分かれば、京義にとってはどうでもいいことだった。 「もうちょっとお前、愛想良くしろよ、そんなんだからお前は」 「はぁ、すみません」 「お前、その顔!全く悪いとか思ってないだろ」 頭をがしがしと乱暴に撫でられて、京義が怪訝そうに眉を潜めると、片瀬ははははと豪快に笑った。そうやって誰かと普通に話をすることが、京義の日常の中に少しずつ増えていることに、京義はまだ気がついていない。その内に、店の方から白石が顔を覗かせた。 「あ、京義くんおはよう」 「おはようございます」 「こいつ、店長にはしっかり挨拶して。ちゃっかりしてんな」 「もう、片瀬くん、京義くんに変な風に絡まないで」 「はいはーい」 白石に注意をされて、片瀬は口を尖らせながら、椅子から立ち上がって店の方に戻っていった。京義は鞄をロッカーに放り込んだ後、着てきた服を脱いで真っ白のカッターシャツに着替えた。どこにでもありそうな白のカッターが、この店の制服だった。その上からジャケットを羽織り、鏡の中の自分はなんとなくそれらしくなる。そういうちゃんとしたジャケットを着たままバイトに行くこともあれば、そんなにたくさんそんなきっちりした服を持っていない京義は、バイト先に置いてあるそれに着替えてからステージに出ることもあった。 「準備できた?京義くん」 振り返ると、丁度白石が顔を覗かせたところだった。京義はそれに無言で頷いて見せた。 『ミモザ』の中は静かで、京義のピアノの音しか聞こえない。カウンターの中でグラスを磨きながら、片瀬はぼんやりと薄暗い店の中でピンスポットに当たって、鍵盤の上を撫でる京義のことを見ていた。半分俯き加減でピアノに向かう京義は、そのブリーチされた白い髪の毛が揺れるその隙間から、赤茶色の目を覗かせながら、余計なパフォーマンスなどせずに、ただ静かにピアノを弾いている。 「何見てるの、片瀬くん」 隣にいる白石がふと話しかけてきて、片瀬は京義から視線を反らした。ある日突然のことだった。白石から急に今日からバイトをするからと、京義を紹介されたのは。その時から確かに『ミモザ』にはピアノが置いてあったけれど、それはろくに調律もされずに、長年埃を被ってミモザの店内の隅に放置されていた。片瀬もほとんど毎日『ミモザ』に通っていたのに、そういえば店にはピアノがあったなと、そこにピアノがあることをその時思い出したくらいだった。どうして『ミモザ』にピアノがあったのか、誰が何の目的でそこに誰も弾くことのないピアノを設置していたのかは、片瀬も知る由がなかった。 「いや、別に」 「ふーん」 白石はそれ以上なにも言わずに、グラスを客から受けとると、それをシンクに置いた。そうして新しいグラスを取り出して、そこにワインを注いでいく。その色がいつも以上に、自棄に赤く見えたような気がして、片瀬は意識的に瞬きを繰り返した。 「ねぇ、店長」 「なに?」 「京義って何者なんです?」 「何者って、高校生だよ、ただの」 その時、片瀬が白石にそう尋ねた時、京義の演奏に一区切りついたようで、京義は椅子から立ち上がって、ピアノの前で一度ぺこりとお辞儀をした。そしていつものようににこりともしないまま、スポットが当たるその場所から降りると、そのまますたすたとスタッフルームに戻っていく。『ミモザ』の客はそんな京義に声をかけようとはせずに、ただ静かに見守っていた。 「ただの高校生ってこんなピアノ弾けるもんですか?」 「さぁ。弾ける子は弾けるんじゃない」 「へぇー」 あからさまに何か隠されているような気がしたけれど、白石がそれを言うつもりがなさそうだったので、片瀬はそれ以上追求をしても意味がないと思って、尋ねるのをやめにした。どこからか分からないが、急に現れた京義は、悪い人間ではなさそうだが、自分のことは何も話さず、そうして唯一京義の出所を知っているはずの店長である白石も、こうして何も語らない。片瀬にとっては得体が知れない人間のままであり、きっとこれ以上でも以下でもないのだろうと思って半分以上諦めている。自分の疑問が解消されないことは、この際どうでもよかったが、可哀想な後輩のキヨがどこを気に入ったのか分からないが、どうも京義に熱を上げているようだったし、それが悪い方向に転んで、キヨが傷つくのは何となく嫌だなと思っていた。 「なに?京義くんのこと知りたければ本人に聞いてみれば」 「知りたいとか、そんなんじゃないですよ」 「あはは、きっと教えてくれるのに」 白石はそう呟いたけれど、本当だろうか、片瀬はそれを聞きながら、半分以上それを信じていなかった。 自分一人の静かなスタッフルームで、今日の差し入れのフルーツタルトにフォークを入れたときだった。扉が開く音がして、誰かが入ってくるのが分かった。 「京義くん」 「あ、はい」 京義はフォークを刺したフルーツタルトから視線をあげて、自分の名前を呼んだ白石を見やった。白石は今日も人の良さそうな笑みを浮かべている。 「最近、夏衣・・・さんは、何も言ってない?」 「・・・いいえ、なにも」 バイト頑張ってねと時々言うけれど、それはたぶん、白石が聞きたいことではないだろう、と思って、京義は言わなかった。そんな口先だけの激励なんて意味がないことを知っている。白石は度々京義に夏衣のことを尋ねたけれど、夏衣はと言うと、京義をはじめにここに連れてきて以降、店にも来ないし、特段京義のバイトを気にしている素振りもなかった。 「・・・そう」 だから白石が知りたいことが何なのか、京義にもいつも分からなかった。

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