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マーブルチョコレート Ⅰ

染の携帯電話は登録されている人がとても少なかった。ホテル住人以外は、キヨと最近仲良くなった鳴瀬と、後はバイトをする時にいつも連絡をしてくる滝沢くらいで、両手の指があれば全て事足りた。キヨと鳴瀬はたまに大学のことで、染に連絡をしてくることもあったが、用事が済めばあっさりしたもので、ほとんど毎日のように大学で会うこともあって、だらだらと会話を続けることはなかった。だから染の携帯電話はいつも静かで、染自身持ち歩くことに意味を余り感じていなかった。 「染ちゃん今日何食べたい?」 「えー、ハンバーグ」 「なにそれ、子供みたいな回答」 「だって好きなんだもん、ハンバーグ」 その日、談話室には珍しく、一禾と染しかいなかった。夏衣は朝から出掛けていて、高校生コンビは土曜日なのに学校があるといつもの時間にホテルを出ていってしまった後だった。一禾はダイニングテーブルに座って、いつもの『今日の献立100選』を読みながら、昼食が終わったところだったのに、もう夕飯のことを考えていた。染は染でソファーに座って、何でもないお昼にやっているクイズ番組を見るわけでもなく見ていた。ダイニングテーブルの上には、一禾の携帯電話があって、一禾はいつもそれを肌身離さず持っていた。染は自分のそれがどこにあるか分からない、そういえば、昨日帰った後に触った記憶がないから、まだ大学に行った時の鞄の中に入れっぱなしなのかもしれない、とぼんやり思った。 「えー、ハンバーグかぁ」 「ダメなの?なら聞くなよ」 「まぁ、悪くはないんだけど・・・」 言いながら一禾は本を捲って、まだ悩んだような表情をしている。口ではそう言いながらも、全然ハンバーグを作る気はなさそうだ、とそれを見て染は思った。一禾の携帯電話は、染のそれと違って、しょっちゅう音をたてている。一禾はそれを酷く気にしている時もあれば、いくら音が鳴っても見ようともしない日もあった。きっと誰がメッセージを送ってきているのか、一禾には分かっているのだろう。あんなに沢山登録されているのに、それが誰なのか、一禾はきっと分かっているのだろう。自分ではそうはならないと、染は思いながら、それは多分、嫉妬でも憧憬でもなかったと思う。 「ハンバーグ作るなら買い物行かなきゃいけないしなぁ」 「あぁそう・・・」 「染ちゃん一緒に行く?」 「・・・やだ」 言うと思った、と言って一禾はあははと笑った。それを見て、染はほっとしている。最近の一禾はホテルに帰ってきている日が長いから、そろそろ一禾の無断外泊がはじまるねと、数日前によく分かったように、夏衣に囁かれてからというものの、染はいつ一禾が出ていってしまって、そうして帰らなくなってしまうのかと思うと、色んなことが手につかなくて、何をしていても集中できなくてそれどころではなかった。一禾の側の携帯電話が音もたてずに、きっと通知の音がうるさいから、一禾はいつの間にかそれを切るようにしたのだろう、いつからそうしているのか分からないけれど、通知を知らせるランプだけが緑色に点滅して、その光が一禾を遠くに連れていってしまうから、それが一禾に届かないようにするためには、どうすればいいのだろうと、染はぼんやりその光を見ながら考えた。それは多分、嫉妬でも憧憬でもなかったように思う。 (どこにもいかないで側にいてって言ったら) (きっと一禾は俺の言う通りにしてくれるんだろう) (そう、一禾がしたいわけじゃなくたって) その厳しくも優しい幼馴染みの横顔を見ながら、染は考えながらソファーにごろんと横になった。だったら絶対にそれ自分から言うわけにはいかないし、喉まで出かかりそうになったその言葉を何度も飲み込んで我慢している。それは全部、一禾の自由を奪ってはいけないと思っているからだ。染は染で、染のベクトルの中で、住む場所を変えてまで、一禾の身の丈に合わない三流大学に入ってまで、自分といつも一緒にいてくれる一禾のことを考えているつもりだったし、一禾のことを理解しているつもりだった。 「もう、染ちゃん寝るの?」 「・・・眠いから」 「食べてすぐ寝たら太るよ」 「・・・分かってるよ」 分かってない、なにも。染は染のベクトルで一禾のことを考えているけれど、いつも間違っているような気がする。自分が考えていることなど、一禾の前ではゴミみたいなもので、何の意味もないことを、染は一応理解しているつもりだったけれど、それでも考えることを止めることはできなかった。一禾がそうやってホテルを出ていくことが、一禾にとっての『息抜き』『ストレス発散』なのだと誰かに耳元で囁かれてから、きっとそんな意地悪なことをするのは夏衣くらいだから、夏衣に言われたに決まっている、染はその一禾の背中を追いかけてはいけないし、声をかけてもいけないと思ってただ見守っている。言いたいことは一杯あるけれど、染にはその権利がないことを、これでも分かっているつもりだった。一禾の小言に耳を塞ぐみたいにソファーの上で体を丸めると、上になにかふんわりと重いものが乗った気がして、染は眠たい目を少しだけ開いた。 「風邪ひくよ」 一禾と目があって、にこっと微笑まれる。一禾が広げた毛布を、自分の体の上にかけてくれたのだとすぐに分かった。一禾は役目が終わるとすたすたとダイニングテーブルに戻っていって、『今日の献立100選』ではなく、携帯電話のほうを手に取った。何気なく一禾はその画面を見ながら、時々画面に触れるようにしていた。その眩しいほどの光が一禾をここから連れ出すかもしれないけれど、自分にはそれを見ていることしかできないなんて、酷い無力だと思った。染は一禾が出ていってしまっても、また帰ってきてくれることを、半分以上確かに信じていた。けれどそれとこれとは別だった。 ふたりがまだ高校生だった頃、一禾はいつも側にいてくれたし、染の不安が高まらないように、いつも一禾しか使えない魔法をかけてくれた。手を握ってほしいと言えば手を握ってくれたし、抱き締めてほしいと言えば抱き締めていてくれていた。一禾はいつも見えるところにいたし、呼べば来てくれたし、どこに行ったか分からなくなるなんてことは有り得なかった。 (大学に行って、一禾は変わったな) (俺は全然、変わらないのに) 大学に行くようになって、ホテルに住むようになって、確かに一禾は変わった。どうしてそうなってしまったのか分からない。染は全然変わりようもなかったから、それを一禾に確かめる術もなかった。一禾は自分の側に今でもいてくれている方だと思う。きっと他の人間なら、とっくの昔に呆れて見捨てているに決まっていた。だから染はこんなに焦燥するのかもしれない、と思った。もしかしたら一禾だって他の人間と同じように、いつかは自分のことを見捨てて、どこかに行ってしまうのではないかと思って、不安になるから。 (俺が一禾に行かないでって言えるのは) (俺と一禾が対等になってからだ) (それまでは、言えない) どうやったら対等になれるのかどうか、そんなこと染には分からなかったけれど、そんな日が来るのかどうか、そんなこと染には分かりようもなかったけれど、それでも信じるしかなかった。対等になったらきっと大声で叫んでもいいし、きっと一禾の服を引っ張って止めても許されるだろう。染はそうやって信じている。そうやる以外の方法を知らないみたいに。

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