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マーブルチョコレート Ⅱ
その日の夕食はやはりハンバーグではなかった。夕食を食べてお風呂に入った後、染は自分の部屋に戻っていた。部屋の中には必要最低限のものしかなくて、染は他に何が自分に必要なのかを知らないから、それで生活をしていくのに困ったことなど一度もなかった。
半乾きの髪の毛のまま、ベッドに横になると、昼間眠ったせいなのか、あまり眠気は襲ってこなかった。ぼんやりと天井を見上げながら、明日までは休みだから、とりあえず人に会わなくても生活ができることにほっとしている。染は体を起こして、大学に持っていっている鞄の中から携帯電話を取り出した。いつも静かにネットのニュースだけを気紛れにリマインドしてくるそれが、その日は一禾と似たように点滅をしていて、染は危うくそれを取り落とすかと思った。慌てて手の形を変えて、それを落とさないように持ち上げる。
(なんだ・・・?)
キヨだったらいいのに、と思ってロックを解除すると、そこには滝沢からメッセージが来ていた。滝沢からのメッセージは、いつも染にとってはあんまりいい知らせではないことのほうが多かった。染は半分目を瞑るようにしながら、それを恐る恐る開いた。
『染くんお久しぶり。また来月号の撮影するからおいでよ』
一回だった約束は二回になって、三回になっていった。なぜ自分がそんなことをしなければいけないのか、染は分からなかったし、理解するつもりもなかったが、どうもその業界の人たちは自分のことを重宝しているらしいと気づいたのは最近で、それは染にとってはバッドニュース以外の何物でもなかったと思う。勿論、行くつもりはなかったし、返事をする必要もないと思ったが、滝沢は形だけでも「友達」だったし、邪険にすべきでないことは、染も分かっていた。きっと普通の友達はそんな風には考えないことを、染は知らなかった。断るにしても、どう断ったらいいのか分からない。染は携帯電話を握ったまま、しばらく無言でそれを考えていた。
『明日、迎えに行くね!』
すると染が返事をする前に、滝沢から追加のメッセージが届いて、染は握りしめた携帯電話を放り投げるかと思うほどびっくりした。滝沢はきっと染が断る口実を考えていることを、分かっていてそれができないように、立て続けにそう告げたのだろうけれど、それが染には分からなかった。滝沢が強引なやり口で今までのバイトのことも決めていたのは、染にもよく分かっていた。だからこのままズルズルと滝沢の思う方に引きずられるのも分かっていた。染はそのメッセージを見ながらまだ、それでもそれを断る方法を考えていた。
(一禾に言う?ダメだな、多分一禾は行けって言うから)
(ナツに頼む?んんー、ナツも行けって言いそうだし・・・)
染がぐるぐると考えている間に、滝沢からメッセージが続けて届く。
『久しぶりに会えるの楽しみにしてるね!』
はっとして染はその画面を見ながら固まった。
(楽しみに?楽しみ?)
滝沢が何を言っているのか分からなかった。誰かのために何かをしたことなんて、染のこれまでの人生ではなかった。だっていつも、自分のことで精一杯だったから。他の人は、例えば一禾や夏衣は、他の人のために自分の時間や他の何かを割くことを厭わないけれど、染にはそれができなかったから、やろうと思ったところで、染にできることなんて限られてて、それは大抵の場合、誰にとっても意味がなかった。
(人から必要にされるって、こんな感じなのかな)
(不思議だ・・・)
多分、染がそれを断れなかったのは、きっと断りきれなかったこと以外にも理由がありそうだった。染は返事をするのを諦めて、携帯電話を手放して、もう一度ベッドの上に寝転んだ。明日は誰にも会わずに、引き込もって静かに暮らせると思ったのに、と思ったけれど、染は自分自身が思ったよりも、不安でいないことに対して、少しだけ驚いていた。二回目があって三回目があったから、なんとなくもう慣れているつもりなのかもしれない。こうして自分の世界が少しずつ広がっていって、会ったり喋ったりしても大丈夫だと思える人が、少しずつ増えていくことは、染にとっては怖いことばかりではなかった。
翌日、約束の時間の少し前から、染は自分の部屋でそわそわとしたまま、落ち着かなくクローゼットを開けたり閉めたりしていた。昨日は大丈夫と思えたことが嘘みたいに、行く寸前になって、「やっぱり断ればよかった」という考えが、頭の中を埋め尽くしてうるさいほどだった。それなのに染の携帯電話には『もうすぐ着くよ~』などと明るい滝沢のメッセージが届き、染はもう足掻いても無駄なのだということを悟って、仕方なく一禾に貰ったサングラスをつけると、部屋を出て階段を降りていった。
「あれ?染ちゃん出かけるの」
談話室に向かおうかと思ったが、誰かに、特に夏衣に、意識はしていなかったけれど多分一禾にも、出かけることやバイトに行こうとしていることに対して、何かごちゃごちゃ言われるのは嫌だった。今やっと自分自身を騙しながら、何とかやろうという気持ちになっているところに、水を差されたくもなかった。本当のことを言えば、誰かに何かを言われたら、自分の意思や信念など、ぽっきりとふたつに折れてしまうことが、目に見えていたからかもしれない。なので談話室には寄らずに、そのままポーチで滝沢が来るのを待っていようと思っていたが、運悪く、階段を降りている時に、一番会いたくない夏衣が談話室から出てくるところと鉢合わせをしてしまって、染は分かりやすく渋い顔になった。夏衣が一連のことを理解したみたいに、苦笑いをする。
「ちょっと染ちゃん、そんな顔しないの」
「うるさい、俺だって、出かけることくらい・・・」
「分かってるよ、別に俺、悪いなんて言ってないでしょう」
染が帽子を深く被り直して、夏衣の視線から逃れようとするのを、夏衣は面白がって追いかけながら、にこにこ笑っている。それを見ながら、染は下唇を噛んだ。夏衣は知らないのだ、自分がどんな気持ちでひとりで外に出る決意を固めているかなんて、自由に外出できる、夏衣には分かりっこないのだ。そう言ってやりたかったけれど、どう考えても八つ当たりであることは明白だったので、染は夏衣の面白がるような視線から逃れながら、黙っていることしかできなかった。
「どこ行くの?学校?」
「・・・バイト」
仕方なく、ぶっきらぼうに答えると、夏衣はにこにこ顔のまま、染の肩を両手でぽんぽんと叩いた。
「そうなんだ、染ちゃん最近バイト頑張ってるね」
「あ、うん・・・」
「行ってらっしゃい。気を付けてね」
「・・・うん」
以外と自分の外の世界は温かいし、怖くなんてないことを、染はいい加減自覚しなければいけないと思いながらも、自覚してしまったら、外に出ていかなければ行けないので、染はそれだけは自覚するわけにはいけないと思いながら、夏衣の手が離れていくのを、少しだけ口惜しいと思っていた。
本当は自分だって、誰かに誇れる自分でいたかった。そうすればいつか、迎えに来てくれることをずっと信じていたし、染はそれ一度も、疑ったりなどしたことがないのだ。
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