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マーブルチョコレート Ⅲ
ついさっき、談話室から出ていったはずの夏衣が、酷く嬉しそうな顔をして、また談話室に戻ってきたので、一禾はきっと何か悪いことが起こるだろうと思って、それを無視することに決めた。その日は日曜日で、ホテルの中はいつものように時間に追いたてられることもなく、穏やかな時間が流れていた。一禾は昨日と同じような格好で、ダイニングテーブルに『今日の献立100選』を広げて眺めていた。昨日はぴんとくるものがなかったけれど、今日こそはぴんとくるものが見つかるかと思っていた。談話室の中には日曜日でも基本的には早起きの紅夜もいて、まだ眠っているのか、京義はそこにはいなかった。
「ナツさんどうしてん、京義起こしに行ったんちゃうの?」
「いやぁ、俺はさ、感動したよ」
「感動?なにに」
一禾は夏衣のそれを無視をすることに決めたけれど、紅夜はそういう一禾の意思を汲んでくれるわけもなく、あからさまな夏衣に当然の疑問をぶつけている。また変なことを言いはじめた、と思いながら、一禾はそれを聞いていないふりをした。
「さっきそこで染ちゃんに会ってさ」
「そういや染さんも起きてへんな」
夏衣から思いがけず、ぽろりと染の名前が漏れて、一禾は無視できなくなって、夏衣の術中にはまっているみたいで嫌だったけれど、仕方なく雑誌から顔をあげた。一禾の座っている位置からは、ソファーに座っている紅夜と話す、夏衣の後頭部しか見えない。
「なんかよそ行きの格好してたから、どうしたの?って聞いたんだよ」
「え、染さん出かけたん?」
「そしたらバイトに行くって!あの子!」
「へー、バイトってまたモデルのバイトなんかな?」
紅夜が素直に高い声で驚き混じりの口調でそう言うのに、一禾は耳を疑った。確か昨日染に予定を聞いた時、勿論聞きながら一禾は、染に予定など存在しないことを知ってはいたけれど、確か染は昨日、明日は何もないから、朝ゆっくり起きてホテルにいると言っていたはずだった。どこかに買い物でも行かないかと一禾が誘っても、人混みが嫌だからと顔を青くして首を振っていたはずだった。
「一禾知ってた?」
振り返って夏衣がまるで自分の手柄みたいにそう言うのに、一禾は黙ったまま首を振るしかなかった。モデルのバイトはこうして急に決まることもあれば、早くから予定を押さえられることもあった。染の場合、学校以外の予定が入っていないから、急に決まったことでも対応できると思われているのか、それとも染が断りづらいように、本当はもっと早く決まっていることでも、こんな風に急に告げられるのか、一禾はよく分からなかったが、もしかしたら後者なのかもしれないと思った。
「一禾も知らなかったんだ。内緒で出かけるなんて進歩だねぇ、染ちゃん」
「そうなんや、それはすごいな。いつも大学行くのも嫌がってんのに」
「ねぇ、すごい進歩だよね」
「そうやな、いつも一禾さんが喝を入れてるだけあるな」
二人の会話を聞きながら、一禾は少しだけ嫌な予感がしていた。染が何かを頑張って、せめて人間らしい生活を送ろうとしている理由を、一禾だけはよく分かっていた。
(まだ諦めてないのか、もう諦めてよ、染ちゃん)
はじめにそのバイトを斡旋したのが、自分だったことを、一禾はもう忘れている。こんなことになるとは思わなかった。こんなことになるのなら、自分はきっと染をそのバイトなんかに行かせはしなかっただろう。染にはひとりで生きていくことを説く癖に、本当にそうなることとは、全く別のことだということを、きっと染は理解できないだろう、そんな複雑なこと。
(そんなことしても無駄だよ、迎えになんて来ないよ)
青い顔をして、下唇を噛みながら小さく震える一禾のことを、夏衣は少し離れたところから見ながら笑っていた。自分の指で傷つけたいつかの傷が痛んで苦しいのに、誰にも助けを求められない一禾は、そういうところだけは、少しだけ染に似ているような気がした。
染が夏衣と別れてポーチから外に出た染は、ホテルの入り口に立って、滝沢がタクシーでやって来るのを待っていた。どうしていつもこんな風になっているのだろうと思っては混乱するが、それを考えても意味がないから、できるだけ考えることを止めることにしている。結局自分の考えていることなんて、他の人間は考えもしないような、些末なことであることを、染は自覚しているはずなのに、いつもその抜け出せない迷路みたいな考えのなかに迷い混んでしまうのだった。
しばらくホテルの前に立っていると、坂の下からタクシーが上がってきて、すぐにそれだと分かった。こんなところに来るのは、ホテルに用のあるタクシーでしかなく、それは今日に限って言えば、染に用のあるタクシーでしかなかったからだ。タクシーは染が思った通りに、染の目の前で止まって、その扉が勢いよく開いて、後部座席から滝沢が顔を覗かせた。
「染くん、遅くなりました」
滝沢はタクシーを降りるつもりがなさそうで、勿論すぐに出発するわけだから、降りる必要なんてなかったわけだけれど、染は少しでもスタジオに行くのに時間を稼げればいいと思ったけれど、滝沢が早く、とタクシーの中から手招きするので、腹を括って乗り込む以外の選択肢がなかった。染が乗り込むと、滝沢は運転手に早口でスタジオの場所を告げて、タクシーはすぐに方向を変えて動き出した。
「ごめんなさい、ちょっとお待たせして」
「・・・いや、別に、そんな待ってない、です」
「ならよかった!」
言いながら滝沢は快活ににこっと笑って、多分お世辞とか嘘ではなく、本当にそう思っていると分かったので、染にはそれが眩しくて仕方がなかった。自分なんかよりよっぽど、滝沢のほうが情緒的で表情筋もよく動いて、モデルをやった方がいいと思ったけれど、どうせ否定されるので、染はそれは誉め言葉のつもりだったけれど、思っただけで誰にも言ったことはない。きっとこれからも誰にも言わないだろう。
「今日もすいません、昨日急に頼んじゃって」
「あ・・・別に大丈夫です」
答えながら、心のなかで染は嘘つきと自分に言ったが、それは聞こえないふりをした。
「そっか、染さん確か大学生だったから、土日ならもしかしたら空いてるんじゃないかなーと思って、連絡してよかった」
「・・・あ、はぁ・・・」
急に口調が砕けて、染は少しだけ焦った。滝沢の会話のペースについていくのに必死になりながら、以前滝沢と話しているときの自分が、どんな感じだったのか思い出そうとしたけれど、随分前のことのように思えて、どうやって会話をしていたのか、全然思い出せなかった。何が「連絡して良かった」ことなのか、染には分からず、聞き返して変だと思われたくなかったから、滝沢のそれには曖昧に返事をしたけれど、あまりにも曖昧な返事だったから、もしかしたら滝沢に、自分が理解して返事をしていないことを、気づかれているのではないかと思ったけれど、滝沢はそれには何も言わなかったから、また自分の勘違いかと思って、染は恥ずかしくなった。
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