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マーブルチョコレート Ⅳ

「よぉ、染吉、久しぶりだな」 「・・・あ、竹下さん」 それからタクシーで30分ほど走ったところ、染も来たことのあるスタジオの前でタクシーが止まったから、染はそのことには少し安心していた。勿論、知らない場所より知っているところの方が、幾分かマシだった。タクシーから降りて滝沢についてスタジオに入ると、すぐそこに佐藤が立っていて、どうやら染のことを迎えに来たようだった。竹下を見つけると、なぜか滝沢は渋い顔をした。 「竹下さん見に来なくていいですよ」 「良かったな、滝沢。染が来てくれて」 「言わなくていいんですよ、そんなこと」 言いながら笑う竹下の背中をぐいぐい押して、スタジオの奥に滝沢が入っていくのに、染はふたりが何を言っているのか分からなかったが、他に頼る人もここではいないので、ただ後をついていくしかなかった。中では多くのスタッフが仕事をするために走り回っていたが、染がぐるりと一周見渡したところでは、女性はいないようだったので、染は小さく息をついていた。 「そういや、染。お前、この仕事やっていくんならどっか事務所入って、マネージャーつけて貰った方がいいぞ」 「・・・え?」 滝沢に背中を押されていた竹下が急に振り返って、本当に突然そんなことを言い出したので、染は名前を呼ばれていなければ、それが自分に向けられた言葉だと、おそらく理解しなかっただろうと思う。目をぱちぱちとしばたかせると、染は小さく首をかしげた。 「なんだ、お前、バイトでしかやんねぇつもりなの?勿体無い」 「いや・・・」 「いい被写体なのになぁ」 そういう話を、以前滝沢としたような気もする。ここの人たちは染のことをよく知らないので、ただの大学生だと思っている。女性が苦手なことは一禾が伝えてくれているのか、いつ来ても配慮してくれているようだったが、染が外でどんな風に怯えて生きているかなんて、人としてぎりぎりの生活をしているかなんて、ここの人たちは誰も知らない。そう思うと肩の荷が降りるようだった。だからこんな風に言える、他の立派に生きている人と、おんなじみたいな扱いを、もしくはそれ以上の扱いを、してもらえる。染はその期待に応えたい気持ちも勿論あったけれど、応えられないことも分かっていたし、早く自分の正体にこの人たちが気づいて、早く自分という存在に落胆すればいいのに、と思っていた。それは自虐でもなんでもなく、割りと本気で、ずっと以前から、染はそう思うことが体に刷り込まれているみたいに、そう思うことは簡単だった。 「・・・俺にはできません、こんな、こと」 「できませんって、表紙飾っといてなに言ってんだよ、馬鹿」 「表紙、あ、そうだ」 「今思い出したのかよ、お前さぁ」 滝沢に背中をもう押されなくなった竹下は、染のすぐ前を歩きながら、開いている扉から勝手に部屋の中に入っていった。後から分かったことだけれど、そこは染のために用意された部屋だった。いつ来ても、そこは誰かの手が入っているようで、白くてがらんとしていて、無機質な感じがした。染は竹下と一緒に部屋に入ったものの、どうしたらいいのか分からず、竹下が椅子を引いて勝手に座るのを、入り口付近に立ったまま見つめていた。テーブルの上には今月号の『オペラ』が置いてあり、よく見ればその写真は自分だった。うわっと染は心のなかで思って、思わずそれから目を反らした。 「もう本屋とかコンビニに並んでるからさぁ、お前もう見たかと思ったけど」 「・・・まだ見て、ません」 「よく撮れてるよ、これ。見れば見るほど、いい被写体なんだよなぁ、お前」 「・・・ーーー」 竹下がそう言いながら、何気なく染に持っていた今月号の『オペラ』を渡してきたので、本当は受けとりたくはなかったけれど、そうもいかないので染は薄目を開けながら、そろそろと『オペラ』を受け取った。表紙を飾る自分の顔は、思ったより自分の顔ではないみたいで、嘘みたいに自信に満ち溢れた笑顔を浮かべていて、見れば見るほど他人みたいに思えたから、渡された時はそんなもの至近距離で見ることはできないと思ったけれど、他人みたいだと思ったら、そんなに嫌な気分もしなかった。いい被写体と竹下が言う、その理由は分からなかったけれど、例えばこうやって、違う人みたいになれることを言っているのだろうか。 「分かる?染、皆これやりたくてやってんの、毎月」 「・・・わ、分かります」 嘘だった。ひとつも分からない。他人みたいに見えたそれも、見慣れてくると自分の顔であることを、脳が認識しはじめたので、染は慌てて表紙から視線をそらすために、ぱらぱらと雑誌を捲った。表紙に引き続いて巻頭の何ページかは染単独のグラビアだったので、急いで飛ばして、人気若手俳優のインタビューが載っているところを開いて、染はようやく安心できた。 「お前にはその才能があるって言ってんのに、なーんかやる気ねぇし、勿体ねぇんだよな」 「・・・やる気・・・」 やる気のことを言われてしまったら、もうどうしようもなかった。染は自分の顔が表紙の『オペラ』を握ったまま、佐藤の顔を見ていると、不意にそれが歪んで、何の前触れもなく、ぽろりと涙が出てきた。驚いたのは竹下の方で、慌ててテーブルの上にあったティッシュを箱ごと渡してくる。 「オイ、泣くなよ、何泣いてんだよ、悪かったって」 「え、あ、はい、すいま、せん」 慌てて竹下が渡してきたティッシュをとりあえず引き抜いて、顔に押し当てながら、染は普通、自分くらいの年齢の人間はこんなことで泣いたりしない、だから竹下はびっくりしているのだと、ちゃんと分かっているつもりだった。染はというと、頭と体が限界を超えると、といっても染の限界はいつもすぐに訪れるし、いつでもキャパオーバーみたいな状況なのだが、涙が勝手に出てくるので、その時も涙が出てきたことについては、染自身はそんなに驚いてはいなかった。 「失礼しまー・・・え?何やってんですか?」 その時、メイク道具を取りに行っていた滝沢が、タイミング悪く部屋に入ってきた。状況の分からない滝沢はきょとんとして、慌てている竹下と、ティッシュで顔を拭いている染を交互に見る。 「違う!滝沢、そうじゃないんだ」 「・・・そうじゃないってどういうことです?今から撮影だっつってんだろ!」 「分かった!俺もう外に出る!な?」 状況の飲み込めたらしい滝沢が大声を出しはじめて、染はそのことに怯えながら壁伝いに入り口から離れて部屋の隅に避難した。竹下は大声で染に謝っているのか、急に怒りはじめた滝沢に謝っているのか分からなかったが、謝りながらばたばたと部屋を出ていった。 「ったくもう、これから撮影だって言ってんのに、モデル泣かせる馬鹿がどこにいるんだよ」 「・・・あ、すみま、せん。泣いちゃ、って」 「あ、いいのいいの、染くんは。あの人どうせデリカシーないこと言ったんでしょ」 怒っている滝沢の背中に染はおずおずと声をかけたが、滝沢は振り返ってやけに明るい声でそう言うと、染を鏡の前の椅子に座らせた。

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