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マーブルチョコレート Ⅴ
ライトがたかれているスタジオの中は、それ以外の場所はそれと比べると随分薄暗かった。滝沢は撮影場所がよく見える場所の壁にもたれかかって、一番眩しい場所に染が立っているのを見ていた。染はそうして少し遠目から見ていると、完璧に整った顔立ちも、そのスタイルも、ルッキズムの全てを持っているというのに、まるで自分は何一つ持っていないみたいにうつむいて、時々子どもみたいに泣いていたりする。それは比喩でもなんでもなく、本当にそういう時の染は子どもみたいに見えるから不思議だった。
「よぉ」
「・・・竹下さん」
呼び掛けられて、声のする方に目を向けると、竹下が気まずそうな顔をして立っていた。滝沢がそれ以上何も言わずにいると、滝沢の隣の壁に竹下もとんと背中をつけた。スタジオの真ん中で、染はカメラマンの指示に頷きながら、曖昧な笑みを浮かべている。本当にそれが分かっているのか、滝沢は心配になりながらもそこを動かないでいた。本当は世界は染が思っているほど怖くはなくて、親切な人の方が多くて、それなのにどうして染はそんな風に、いつも誰かに攻撃されるのを恐れているのだろう。
「滝沢、さっきの、悪かったよ」
「俺じゃなくて染くんに謝ってください」
「謝ったよ、だって泣くと思ってないじゃん、あんなことで」
「何を言ったんですか」
冷たく、自分でも冷たい言い方だなと思いつつ、滝沢がそう聞き返すと、竹下は腕を組んでうーんと言いながら空を見上げた。
「覚えてないんですか」
「いや、悪かったよ。俺的には世間話をしてるつもりだったんだよ。何があいつにそんなに引っ掛かったのか正直分かんないっていうか・・・」
「何なんですか、それ。いつも適当なことばっかり言ってるからですよ」
「そんな怒るなよ」
そう言いながら、竹下は反省していない声色ではははと小さく笑った。もうすぐ夏が来るというのに、外の日差しは日に日に強くなっているというのに、染はオールブラックのロングコートを着て、ライトの下で酷く暑そうに見えた。スタジオの中はモデルの適温に合わせられているせいか、酷く冷房が効いていて、そのせいで滝沢も竹下も本来着る必要のない薄い上着を着ていなければいけなかった。
「なぁ滝沢」
「何ですか」
染が額に汗をかいているそれを押さえにいかなければと思いながら、滝沢はゆっくり壁から背中を離した。竹下の声に振り返ると、その明暗のコントラストの強いスタジオの一番暗い場所で、竹下は滝沢が思うよりももっとずっと、神妙な顔をしていたので、滝沢は驚いてしまった。
「お前は染のこと、こっちに引っ張りたいんだろうけど」
「・・・」
「止めとけよ、染がかわいそうだ。こっちの世界はそんな甘いもんじゃねぇ、覚悟のないやつはただ磨り減って潰されるだけだ」
「・・・ーーー」
竹下がその時、何を言いたかったのか、滝沢には良く分かっていた。滝沢はそれに口を開いて、きっと何か反論するつもりだった。
「滝沢くーん!」
けれど、その時そうやって名前を呼ばれて、滝沢はそれに返事をして、光の量の多いほうに向かう選択肢しかなかった。竹下が何を言いたいのか、分かっているつもりだった。きっと竹下が楽屋で染に話したことも、きっとそういうことだったのだろう。分かっていたけれど、滝沢はそれに反論しようがなかった。さっき、竹下に向かって何と言うつもりだったのか、もう忘れてしまった。
前回の表紙の撮影に比べたら、今日のそれは割りと短時間で終わって、解放され楽屋に戻ってきた染はほっとして、テーブルの上に、たぶん滝沢が用意してくれたであろう、お菓子を食べていた。マーブルチョコレートは広げると色が綺麗で、昔こうやって誰かとチョコレートを分けあった記憶があったけれど、誰と分けあったのか、染は思い出せないでいる。
「染くんお疲れ」
ノックの音とほとんど同時くらいに扉が開いて、滝沢がにこにこ笑いながら入ってきて、染は慌ててテーブルの上に広げていたチョコレートを隅に寄せた。
「あ、お疲れさま、でした」
「お疲れ、今日も良かったよ!来月号も楽しみだね、あれ、これは再来月だったかな」
「あー・・・あ、はい」
どちらでも良かった。どちらでも自分には関係のあるようでいて、ないことだった。染は曖昧に返事をして、視線をテーブルの上に落とした。
「染くん、また来てくれる?」
「あー・・・はい、まぁ」
こういう時にはっきり断れない自分のことが、ずっと嫌いだった。とりあえず何でも良いからへらへら笑って、相手の機嫌を取ることはできなくても、損なわないようにしてしまうのも、本当はしたくなかったのに、染は気づいたらまた同じことをしている自分のことを、許せないと思いながら、許してやろうとも思うのだ、そうしかできないことを十分分かっているからだろうか。
「ねぇ、染くん。前に俺が話したこと覚えてる?」
「えっ」
滝沢は声のトーンを少しだけ落として、そう言うと小首を傾げた。染はだらだらと冷や汗をかきながら、頭の中の滝沢に関する記憶を全部引っ張り出して、滝沢が何を言っているのか、思い出そうとしたけれど、すぐには分からなかった。滝沢は染がエンストして、黙ってしまう様子を見ながらいつものように笑って、染に思い当たる節がないことに気づいているみたいだった。
「この仕事の話、考えといてって言ったでしょ」
「あっ・・・あー・・・覚えて、ます」
「でもその様子じゃ、あんまり考えてくれてはいないみたいだね」
「・・・お、俺には無理だから・・・」
曖昧なことを言って、染は罰が悪くて滝沢から視線を反らしてそう言った。本心だった。
「そんなことないよ、俺には分かるんだ」
「染くんはここで生きていける人だよ」
磨りきれて潰れてしまうぞ、と竹下が言った声が、耳の側で聞こえたような気がした。
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