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マーブルチョコレート Ⅵ
タクシーで送ってくれると言う、滝沢の誘いを断って、染はスタジオから離れて、東京の見知らぬ街を、たったひとりで歩いていた。やっとバイトが終わった安心と、耳元で雑音のする感じとが残っていて、何だかひとりになりたい気分だったのだ。東京の街は染が思っているよりずっと、誰も染に関心がないみたいで、居心地が良いわけでは決してなかったが、悪いわけでもなかった。そこにひとりでいるのは、何度か練習もしたから、大丈夫だという自信もあった。だから滝沢のそれも断ることができたのだろう。
(こういうのは断れるのに変なの)
ポケットに入れっぱなしだった、楽屋に置いてあったお菓子の中で、染が食べてたマーブルチョコレートの残りの小袋を、滝沢が「それが好きなんだったら持っていっていいよ」と渡してくれた、特別好きだったわけではなかったけれど、なんだかそれを食べていると懐かしい気持ちになったのだ、を取り出して、小袋を破ってそれを全部まとめて口に入れた。小さい頃はこんな贅沢な食べ方はできなかったな、とひとりで思う。小さい頃、誰かと好きな色を取り合っていた頃、違う色なら味が違うと思っていた。でも中身は全部チョコレートで、味なんかひとつも変わらないと気付いたのはいつからなのだろう。染だって他の誰かと比べると、本当に些末なことかもしれないけれど、そうやってひとつずつ大人になっていることもあった。
(ここからどうやって帰るんだろ、電車かバス乗って・・・)
スタジオからできる限り、はやく離れたくて急ぎ足で、方向など関係なく歩いてきたけれど、染はそこで足を止めて携帯電話をポケットから取り出した。ホテルまでの道のりは調べないと、勿論帰ることなんてできなかった。東京の休日の街は、皆楽しそうで、誰かと喋りながらふわふわとした足取りで、着実に行き先を知っている足取りで向かっている。染はそれに流されそうになりながら、道の端っこに寄った。彼らと自分は何が違うのか、分からないけれど、そう思っても願っても、どうにもならないことは分かっていた。
(・・・あ)
染が人混みを避けた時、丁度近くにコンビニがあって、コンビニのガラスの向こうに、おそらく新しく発売された雑誌が表紙が外を向くように並べられていて、そこにさっきまで見ていた『オペラ』も他の雑誌と同じように、飾られていた。さっき見た『オペラ』よりももっとずっと、そこに写っている自分は自分のはずなのに、まるで他人みたいに見えた。
(ほんとだ、発売されてる・・・)
ホテルまで帰るルートを探すのを止めて、染がぼんやりとその表紙を見ている時だった。
「あれ?」
ふと近くで女の子の声がして、染は勝手に肩がびくつくのを押さえることができなかった。恐る恐る声の方を見ると、そこには女の子と近くに男も立っていたから、きっとカップルなのだろう。大きな声だったが、染にとっては知らない人だったので、自分に声をかけてきた訳ではないのだなと思って、それには少しだけ安心した。しかし女性の声に反応して、心臓がドクドクと煩く脈打ちはじめたので、その場所をはやく去ってしまいたくて、染は携帯電話を一度ポケットに仕舞い込んだ。
「なんだよ、大声出して」
「ねぇ、あれ、あの人、モデルだよ、オペラの」
「オペラ?」
さっきほどの音量ではなかったけれど、染の耳には途切れ途切れにカップルの会話が聞こえてきて、心臓はより煩く高鳴る。
「ちょっと声かけてよ」
「なんでだよ、お前がかけろよ」
「えー、だってぇ」
染は足をそのカップルには見えないように、そして不自然ではないように、できるだけゆっくり動かして、元来た道を戻ろうと思った。まだ動ける間に、どうにかしておかないと、どうにもならなくなっても、今は側に助けてくれる一禾もキヨもいなかった。こんなところで、誰にも助けてくれない東京の真ん中で、ぶっ倒れるわけには行かなかった。一禾がいつかくれた、黒いシャツを握りしめて、染は小さく「落ち着け」と呟いた。実際に呟いていないと、どうにかなってしまいそうだったからだ。
「すいませーん、オペラの・・・」
「・・・っ」
しかし染の体が動くよりも前に、彼女の方が身軽だった。染の進行方向に回り込んで、顔を覗き込まれて、彼女は言葉を続けようとしたようだったが、染が冷や汗をだらだら流しながら、唇を噛んでいるのを見て、少しぎょっとしたように立ち止まった。今しかない、染は思って、彼女を振り切るために走り出した。体は重かったし、息は走り出す前からずっと耳元で煩かったけれど、彼女は追いかけてこなかった。
「・・・え?そうだったの、結局」
「分かんない、でも絶対そうだったと思う、逃げたし」
彼女は呟きながら唇を尖らせて、染が雑踏の中に消えていくのを目を凝らして探そうとしたけれど、それは多分、追いかけて捕まえてやろうとしたわけではなかった。世の中はそんなに悪意には満ちていない。ただ、それに染が気づくことはできないのだ、まだ。
どこをどう走ったのか、元々が知っている場所ではなかったし、染にはもう分からなかった。兎に角、息が続く限り走って、走って、走った。足がもつれて、一瞬スピードを落とすと、まるでそれを狙っていたみたいに、息が詰まってそれ以上走れなくなってしまった。通行人の邪魔にならないように、染は店の壁伝いにふらふらと歩きながら、荒い呼吸を繰り返していた。頭の中は熱くて熱くて、何も考えられなかったけれど、最悪のことにはならずに済んでいることだけは分かっていた。
(・・・もう、ダメ、だ、本当に)
ポケットを探ったら、確かにそこに入れていた携帯電話の形を手のひらがキャッチした。染はふらふらと歩きながら、携帯電話から、滝沢の連絡先を探した。これ以上無理だった。こんなことになると思っていなかった。思っていなかったのだ。それでなくても、人目につきやすい自覚はあった。ほとんどの人は染のそれを褒めてくれるけれど、染は本当は、本当なら、こんな見た目に生まれたくなかった。本当ならもっと無難でよかった、無難で普通だったら、こんな思いをすることもなかった。もっと普通に外を歩けたし、友達も沢山いたかもしれないし、恋愛だってできたかもしれない。
(そんなのどうでも、いいけど)
(・・・もう無理だって言おう、元々、俺には無理、なんだ、こんなこと)
無理なことをやっている自覚はあった。だからいつも断れる隙を探していたし、いつでも辞めるつもりでいた。そのきっかけがずっとなかっただけだった。染は歩きながら滝沢の連絡先を探したけれど、こんな時に限って、登録している人数が少ない癖に、全然見つからなかった。
(無理なんだ、俺には、こんなこと、はじめから)
分かっていた、もうずっと前から、それなのに震える指で滝沢の名前を探しても探しても、それが見つからないのはどうしてなのだろう。
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