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マーブルチョコレート Ⅶ
熱い頭で行く宛もなく、ふらふらといつも使わない筋肉を急に使った疲れと目眩のせいで重たい足取りで染は歩いていた。歩みを止めると、熱さにもっともっと頭を侵食されてしまいそうだった。滝沢の連絡先はなぜか見つからないし、もう後でもいいかと思って、半分以上諦めて、携帯電話を握りしめてはいたものの、それは滝沢に電話をかけるためでは最早なくなっていた。そうして染が宛どなく歩いている時だった。車道の向こうによく知っている横顔が見えたような気がしたのは。
(・・・あれ?)
今まで大事に握り締めていた携帯電話が、急激に邪魔になったので、それをポケットに滑り込ませる。染は今まで来た方向を、早足で戻った。本当は走り出したかったけれど、熱さと疲労のせいで、それ以上のスピードを出すことができなかった。一瞬見間違いかと思ったけれど、染がその人と他の人間を見間違えるわけはなかった。その人は染と別れたままの姿のように見えて、勿論そんなはずはなかったけれど、その時の染の目には、何一つ変わったところがないように見えた。だからこそこんな人混みの中で、その人の情報だけを選び取ることができたのだと思う。車道を挟んで向こう側を、その人はゆっくり歩いているように見えたのに、染が幾ら急いでも全然その背中に辿り着くことができなかった。
(えっ?人違い、じゃ、ないよな)
そもそもこんなに近くにいるとは思っていなかった。こんな風に街でばったり出くわすみたいに、出会うことが、正解なのか間違いなのかと言われたら、きっと間違いなのかもしれないけれど、染は追いかけることを辞めることはできなかった。
(もう、ちょっと、なのに)
本当は乗り出して叫びたかった、大声で名前を呼びたかった。そうしたらこっちを見てくれることは、分かっていたのに。そんなこと自分には到底できないと分かっていたけれど、染はその幻想に振り回されて苦しくなる。その人は東京の雑多な街を、まるでよく知っている場所みたいにゆっくり歩いていて、染は少し進もうとするのに誰かにぶつかったり、足がもつれたりしているのに、その人は一定のスピードを保っていて、誰かにぶつかることも、躓いて転ぶこともなく、優雅に人の流れに乗りながら、染みたいにどこにいくべきか迷った足取りではなくて、多くの人がそうであるように、自分の行くべき方向をわかっているみたいだった。車道を挟んで、こちらとあちらでは、世界が違うみたいだった。
(違うんだけど、全然)
染の目の前に横断歩道が現れて、そこには信号が変わるのを待っている人が集まっていた。その人も車道の向こうで人混みの中に紛れて、こちらに渡ってくるようで、染のいる場所と同じように人混みの中に佇んでいた。染は急いでいた足を止めた。心臓が煩かったけれど、もうそれは発作のそれではないことが明白だったから、染はもうそれを気にする必要はなかった。染もゆっくりと信号を待つ人たちの群れの後ろに並んだ。車道の向こう、人混みの中に確かにその人はいた。
(・・・何て、言うんだ)
人が立ち止まっている形に赤く光っている、その横の信号の待ちを知らせるランプがひとつ、またひとつと減っていく。その度に染の焦燥も膨れて行ったけれど、逃げ出すわけにはいかなかった。逃げ出す選択肢は、珍しく染の中にはなかった。正面から顔を見るのは、久しぶりだった。それでも染には何も変わっていないように見えた。別れたままの姿で、染の記憶の中のままの姿だった。
(何でもいい、何でもいいんだ)
きっと多分、何でも良かった。名前を呼んで目さえあえば、それ以上のことは、本当は何もいらなかった。心臓の音が耳元で煩い。脳が湯だったみたいに熱くて、ただそれだけのことが、ただそれだけのことだと分かっているのに、それでも言葉が浮かんでこなかった。
(・・・声をかけるんだ、久しぶり、偶然だね、元気にしてるって)
信号はいつもより倍速の速さで青になって、染は横断を待つ人たちの群れが動き出すのに合わせて、動き出すしかなかった。染の歩みが遅いから、後ろで待っていた人たちが、急ぎ足で染を抜かして先に歩いていく。ゆっくりとその人は近づいていた。そんなに見ていたら気付かれるのではないかと思うほど、染は知らない間に穴が開くほど見つめていたけれど、目が合うことは最後までなかった。
「・・・ーーー」
丁度、スクランブル交差点の真ん中で、染はその人とすれ違ったけれど、結局何も言えなかった。周囲の動きに押し流されて、染とは違う方向に流れていくその人のよく知っているはずの横顔を、染は最後に振り返って見ることしかできなかった。そうしてさっきまで見ていたはずの地点に降り立ってみると、そこはなんてことはない、染がさっきまでいた場所とそんなに相違ない、東京のよく知らない街でしかなかった。染はスクランブル交差点の向こうから、街の流れに逆らうことなく、歩いて、そして消えていくその人のことが、見えなくなるまでそこに立ち尽くして見ていた。染にはもう、それしかできなかったから。
(・・・声、かけられなかったな)
(ちゃんと俺、大学、行ってるん、だよ、バイトも、してるから)
染はまた、ふらふら宛もなく歩き出しながら、携帯電話をポケットから取り出した。すると今度はなぜか、さっきまで全然見つからなかったはずなのに、滝沢の連絡先が見つかるから不思議だった。それを選択しようとして、指が震えて止まる。
(・・・俺が、ちゃんと、できるようになったら)
(きっと、迎えに来てくれ、るんでしょ)
江崎に「途方もない」といつか言われたことは忘れた。染はそれだけを信じている、他の皆が「馬鹿みたい」と言っても、それだけを諦めることはできなかった。染は震える指で携帯電話をもう一度ポケットに入れた。滝沢に電話をするのはもっとずっと後でも良かった。きっと他の大学生は、染の考える普通の大学生は、ちゃんと大学に行っているし、バイトもしている。だったらこれでいいはずだった。自分がそれに近づけば近づくほど、きっと認めてもらえる確率は上がるはずだったから。
(きっと、迎えに来て、くれる、から)
それを信じていた。その為に、やらなければいけないことは、きっとまだ沢山あるけれど、いつか迎えに来てくれたら、その時に胸を張って、ちゃんと生きていることを証明しなければいけなかった。その為に、染は顔を上げるしかなかった。こんな東京の真ん中で、頼れる人が誰もいなくても、ひとりでも、普通にちゃんと、生きていかなければいけなかったから。
(俺、ちゃんとやるよ)
その事だけを信じていたし、その事だけが染にとっての真実だった。例え、他の人間になんて言われたって、その事だけが。
マーブルチョコレートが全部おんなじチョコレートの味だったなんて、あの鮮やかな色に意味なんて本当はひとつもなかったことだって、多分、あの頃は知らなかった。だから一緒に好きな色を選んで取り合いっこをして、ただそんなどうでもいいことで笑っていられて、でもそれが本当は一番、何より楽しかった。何にも変えがたい、その記憶さえあれば、染は十分だと思った。ポケットに手を入れると、滝沢がくれたマーブルチョコレートの小袋が、まだ少し残っていた。
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