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壊れ始めた世界で

白い天蓋付きのベッドだった。そこで横たわる彼女は作り物みたいに美しくて、さながらお姫様のようだと思った。遊楽院家は、歴史が浅く、西洋の文化が日本に入ってきた以降に発展した家であり、その外観も屋敷というよりお城と呼んだ方が、それの本質をうまく表現できている。そのさながらお城の中は、ロココ調の家具で統一されていて、自分の家ではこうはならないだろうと、その時秋乃はそんなどうでも良いことを考えながら、気分が悪いのを誤魔化しているつもりだった。夢はどこの病院にも入院していないようで、これは白鳥でもよくあることだが、怪我をしても病気になっても、それ相応の施設と、医者がいつも側にいたから、入院する必要などなく、その必要がなければ自宅で療養していることが多い。その時、秋乃と卯月が彼女の見舞いに行った時も、彼女は自室の、そのお姫様のようなベッドで横になっていた。 「・・・お嬢様、秋乃様と卯月様でございます」 使用人はスーツではなく、執事服を着ていて、その時代錯誤としか思えない、妙ちくりんな格好に秋乃は頭が痛かったが、多分そんなことを気にしている場合ではなかった。使用人が二人がかりでその白いレースでできた天蓋を引き上げるのに、秋乃は怖くなって、卯月の後ろに隠れてそこから半分顔を出して、夢の様子を見ていた。そこから顔を覗かせた夢は頭に白い包帯を巻いていたけれど、それ以外はいつも通りに見えて、秋乃は握っていた卯月のジャケットの裾を離した。 「・・・秋乃さん、卯月さん。遠いところわざわざどうもありがとう」 「夢ちゃん・・・」 少しだけ上半身を起こすようにして、夢は微笑んでそう言った。それになんと返したらいいのかわからなくて、秋乃の口からは頼りない言葉だけがぽろぽろ溢れるみたいに落ちていく。妙な格好をした使用人に椅子を勧められる頃には、秋乃はもうこの家の世界観に少しずつ慣れていた。ちらりと隣の卯月の様子を見ると、卯月は神妙な顔をしてただ黙っている。本当はひとりで来るべきだったのかもしれないが、夢の状態がどんなものかよく分からなかったので、ひとりで来るのは怖くて、丁度本家に出入りしていた卯月を捕まえて、ここまで連れてきたのは良いけれど、何かの役に立つ気がしなかった。 「夢ちゃん、寝たままでいいよ。大丈夫?」 「大袈裟ですわ。本当はこんな包帯いらないんです。髪の毛がほんの少し、抜けたくらいですから」 夢はそう言ってにこりと笑った。大丈夫なようにはとても思えなかったが、秋乃はそれになんと言えば良いのか分からなかった。黒崎からそう報告を受けただけでは、もしかしたらそれを信じなかったかもしれない。けれど確かに春樹はあの時、秋乃の首を絞めた、それも遊びでは許されないくらいの酷い力で。思い出すと握った拳が震えて、その恐怖が目蓋の裏に蘇ってきそうで怖かった。 「・・・本当に春樹がやったのか」 気味が悪いほど静かだった卯月がそう言って、夢はその柔らかい笑顔を瞬時に無表情にした。卯月は知らないのだと、秋乃はそれを隣で聞きながら隣で思った。知らないから言える、そんなことが。まだ卯月の中では、春樹はかわいい弟なのだ。秋乃も本当ならば、そういう優しい夢を見ていたかった。かわいい弟の、春樹の狂気なんて本当は知りたくなんてなかった。 「そうです。とても信じられないことだと思いますけれど」 「・・・そうか」 卯月は強い目をしてそう言う夢を目の前にして、ただそれだけを言って、項垂れた。それしか言えなかったのだろうと思いながら、秋乃はそれでも卯月を慰める言葉を何も持っていなかったから、どう言うのもここでは不正解のような気がした。 「・・・ごめんね、夢ちゃん。もうあいつに勝手なことはさせないから」 「いいえ、私が悪かったんです。勝手に夏衣さんに会いに行ったりして。春樹さんが怒るのも無理ないことです」 「怒ったって、それがこんなことを、夢ちゃんにしてもいい、理由にはならないのよ」 「・・・ーーー」 正論だったが、少なくとも秋乃はそれが正論だと思っていたけれど、何だかそこでは上滑りしていって、その場では何の意味もない言葉になり下がっていた。それに多分夢も気付いていたし、秋乃もそう言いながら、最早正論なんかに何の意味もないことは分かっていた。ここにいる誰も、春樹の暴走を止めることができないことも、多分一番それを信じたい秋乃が、一番良く分かっていた。 それでもそう言うしかなかった。 妙ちくりんな服を着た使用人に見送られながら、秋乃は乗ってきた黒の国産車に乗り込むと、その扉を閉めた。やけにそれが重たく感じたのは自分だけではなかったと思う。考えながら、隣に座る卯月のことを見やると、卯月はぼんやりとその白鳥の本家と同じ光彩を、外の景色に投げかけていた。役に立つと思って連れてきた訳ではなかったけれど、卯月は夢の前でほとんど喋らなかったし、それどころか、春樹がやったことにこの期に及んでまだ、疑問を呈していた。きっと卯月の中のかわいい弟は、夢相手に暴力を振るったりはしないのだろうけれど、でも現実はこうだ。考えながら奥歯を噛むと、少しだけ首の傷が痛んだ気がした。 「なぁ、秋乃」 「なによ」 少しだけ苛々しながら答えると、卯月はその目で秋乃のことを見たようだったけれど、秋乃は外の景色を見ているふりをした。 「春樹はなんで、あんなことしたんだろうな」 「・・・さぁ」 そんなこと考えたこともなかった。夢は夏衣のことも呟いていたけれど、それが理由とは秋乃は思えなかった。『男娼』と確かに春樹は秋乃の前で、夏衣のことを嘲笑したのだ。その事を卯月は知っているのか、それとも知らないでいるのか、秋乃には分からなかったから、その話をすることもできなかった。春樹の言動は浮わついていて一貫性がないように思えたけれど、その衝動の高さには身に覚えがあった。思い出しそうになって、背筋がゾッとした。こんなことでは自分も守れないままでは、夢のことを守ることなんて不可能だったけれど、秋乃は嘘でもそれをやると宣言しなければならない理由があった。 「あいつ、俺が最後に会った時、夏衣のことを心配してたよ」 「・・・」 「そんなことも全部、あいつの気持ちとかも全部、白鳥になるためには捨てなきゃいけないのか」 「・・・ーーー」 知らなかった、そんなこと聞かれても、秋乃には分からなかった。秋乃だって知りたかった。白鳥になるということが、一体どんな質量で、どんな重圧で、どんな風に人格に入り込んでくるのか。秋乃だって分かるはずもなかったから、知っている人間がいるのなら、秋乃の知る限り、それを知っているのはこの世にたった一人しかいなかったけれど、それを聞いてみたかった。 「まだ春樹の肩持つつもりなの」 「・・・いや、そういうわけじゃないけど」 「だったら何なの」 卯月は黙って、その美しい相貌を歪めた。 「春樹の全部を、なかったことにはできねぇよ」 吐き気がする、と秋乃は思った。

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