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海に落とした名前 Ⅰ
深夜の談話室の中は、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。その日、いつもはそんなことはないのに、その日ふと紅夜が深夜に喉が渇いて、目が覚めて、水でも飲もうかと思って談話室に降りていった時だった。そこには誰もいないはずだった、いつも。だが、その日に限って談話室の扉からはオレンジ色の光が、薄闇に侵食されつつある廊下に伸びてきていた。それでも紅夜は、はじめにそれを見た時に、誰かが、おそらくは夏衣か一禾のどちらかが、談話室の電気を消し忘れたのだと思った。
(誰かいるんか・・・)
それでも、そっとその扉を開けたのは、静まり返ったその夜が、少しだけ怖かったからなのかもしれない。扉の隙間から、白くブリーチされた髪の毛が見えた。京義だ。京義は深夜にアルバイトから帰ってくることもあるようで、夜に起きていることも多いようで、それが昼夜逆転して、昼間眠いことの原因だろうことは明白だったが、それを紅夜が指摘しても、京義はそ知らぬ顔をしているだけで、無意味だった。そこに京義がいたことで、幾分ほっとして、紅夜は扉を開けようとした。
(京義・・・?)
その時、京義は手に茶色の大きなブランケットを持っていた。それを広げて、ソファーの上にそっとかけている。紅夜は京義が何をしているのかわからず、しばらく扉の隙間から、京義の後ろ姿だけを見ていた。ソファーの上には誰かが眠っている。
(一禾さん)
ソファーの肘掛けに溢れる髪の毛から、それが一禾であることは、すぐに分かった。京義はブランケットを、ソファーで眠ってしまった一禾にかけているところだったのだろう。談話室のソファーはふかふかしていて、それでいて人間の座るところはそれなりに草臥れていて、だけどその草臥れ具合が丁度体にフィットするから、紅夜もそこで横になるのは好きだった。ホテルで過ごす数少ないルールの中に、寝る時は自室で寝ること、談話室で眠らないこと、というルールがある。それを作ったのは一禾だったと聞いたが、談話室で夜遅くまで片付けをしていたり、明日の朝食の準備をしているうちに、そこで一禾が眠ってしまうことも、時々あるようだった。そこに多分、バイトから帰ってきた京義が居合わせただけだろう、ただそれだけのことだろう。
「・・・ーーー」
そのオレンジ色の淡い光の中で、京義はブランケットをかけることが終わった後も、ぼんやりとソファーの側に立っていた。じっと眠っている一禾がいるであろう場所を見ながら、そこにしばらく立ち尽くしていた。それに一体何の意味があるのか、紅夜には少しだけ分かる気がした。京義のそのいつもの眠そうな無表情はどこか、捨てられた子猫みたいに、切なく揺らいでいたから。
(京義は、多分)
そう考えると呼吸の仕方を忘れてしまったみたいに胸が急に苦しくなって、紅夜は扉を半開きにさせたまま、薄闇が広がる廊下に戻っていった。そんなこと知りたくなかった。でもどうして自分が知りたくなかった、なんて思っているのか、紅夜にも分からなかった。ポーチまで転がるように出て来てしまって、紅夜は一瞬のことで上がった息を無理矢理整えるみたいに、小さく呼吸を繰り返した。ポーチから見える外は暗くて、月の光だけが、辺りをぼんやりと照らしていた。
内鍵を開けると扉は簡単に開いて、紅夜は少しだけ外に出るつもりで、外に飛び出した。外の気温は思ったよりもそんなに寒くはなく、Tシャツで十分だった。外は静かだったけれど、ホテルから見える遠くの道路にはヘッドライトをつけた車が列をなしていて、こんな時間でもまだ、活動している人間がいるのかと思った。世界に自分ひとりで、ただ苦しい訳じゃないのかと思ったら、少しだけ気持ちが楽になった気がした。
(・・・あほらし)
外の風に当たったら、すぐに戻ろうと思っていたけれど、予想以上に外の風が心地よかったので、紅夜はそのままゆっくり街のほうに坂を下り始めた。夏が近づくアスファルトは、日中の気温を吸い込んでいて、夜でも少し温かい気がした。それをサンダルだけで踏みしめて歩くから、熱がダイレクトに足の裏に届くみたいな気がしている。少し行ったところで振り返ると、ホテルは暗闇の中、白い街灯に照らされて、いつも見ているそれとは随分、雰囲気が違うように見えた。気のせいだったのかもしれないが。
(ちょっと散歩したら、戻るから)
誰に言い訳をするわけでもなく、紅夜は自分自身にそう呟きながら、坂を軽い足取りで下りていった。少しだけ、悪いことをしているような、夜中に家を抜け出して、探検しているような、不思議な気分がして、さっきまで考えていたことは忘れてしまった。
(あ、バス)
もうバスの時間など、とっくに終わっているはずだと思ったけれど、その時、坂の上からバスの明かりが見えて、それがゆっくりと紅夜を追い越していって、すぐ近くのバス停で音を立てて止まった。扉が開くと、会社員らしき女性がひどく疲れた表情で下りてきた。こんな時間まで仕事をしていたら、それはあんな顔にもなるだろう。考えながら紅夜はバスに近付いていって、まるで吸い込まれるようにそれに乗り込んだ。バスの中には、以外にもまだ乗客が何人か、決して多くはなかったけれど何人か乗っていた。紅夜は入り口からすぐ近くの一人席に座って、紅夜が座ると同時にバスのエンジンがゆっくりとかかって、バスがなんのアナウンスもなしに発進する。紅夜はぼんやりと窓の外を見ていた。その景色は、いつも学校に通っている時に通っている時に見ているそれと、なんら変わりないはずだったのに、夜だというだけで、いつもとは別物に見えた。
(俺、なんでこんな時間にバス、乗ってんねやろ・・・)
自分でもこんな衝動的な行動を、自分がしてしまうことに対して、紅夜は少なくとも驚いていた。自分では自分のことはもっと慎重な性格だと思っていたし、どちらかと言えば、計画的な方だと思っていた。そうならない場面も多かったけれど、こんな風に行き当たりばったりに行動することは、今まではなかったと思う。帰らなければ、と思う反面で、このままどこかに行ってしまいたいような気がしていた。
(どこかってどこやねん)
(行くところなんてないくせに)
バスのガラスはその向こうが暗いせいで、自分の顔が写っていて良く見えた。その自分が暗闇の中で、嘲笑しているのが目に入る。何がおかしいか分からなかったけれど、笑わないとやっていけなかったのかもしれない。紅夜は夜のせいで見慣れぬ外の景色を見るのを止めて、ただぼんやりと前方を見ながら、バスが時折大きく揺れるのに、体を任せていた。行くところなんてなかったし、居てもいいところも多分、自分にはなかった。紅夜にとってホテルは居心地のいい居場所だったし、できれば他のどこかに行きたくはなかった。けれど、ここにも長くはいられないことは分かっていたし、なんだかここの人たちと仲良くすればするほど、自分が楽しく過ごせば過ごすほど、いつかとんでもない不幸が降りかかってくるのではないかと思って、そのことだけは怖かった。ここの人たちのことを誰も、不幸にしたくはなかったから。
『不幸になったのは相原の責任じゃない』
そう勝浦に言ってくれたのは京義だった。その時の精悍な横顔のことはいつでも思い出せる。紅夜はふとついさっき談話室で見た、眠る一禾を見つめる京義の頼りないような切ないような横顔を思い出していた。あれも京義だったし、きっとこれも京義だった。
(嘘なんか、なかった)
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