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海に落とした名前 Ⅱ
駅前でバスを降りた紅夜は、夜の街をただ明るい方へ歩き出した。その頃はまだ、少し散歩をしたら帰ろうと思っていた。これは現実逃避の一貫だった、それにすぎなかった。例えば一禾が、今は一禾のことをあまり考えたくはなかったが、その全てのことにおいて、一禾は何も悪くなかったし、紅夜にとっては部外者だった、一禾がホテルを抜け出して、時々女の子の家を渡り歩いて生活しているみたいに、これも夏衣がそう言っていただけであって、一禾はそんな素振りをみせたことはないし、紅夜はそれが真実だと信じるには、夏衣の証言以外にもう少しだけ、証明できるものが必要だろうと、明らかに一禾の大学生の身分では購入できないような、高級車や時計を身に付けた一禾の姿を見ながら、まだ暢気にそんなことを思っていた。明らかに未成年の自分が、こんな深夜に着の身着のままでうろついていると、警察に補導されるかもしれない、そうすれば夏衣にまた迷惑をかけるかもしれないなんてこと、冷静になれば分かることだったが、その時は何も考えていなかった。
(夜でも、こんな、街は明るいんやなぁ・・・)
ぼんやり、考えたくないことを頭の一番深い場所に追いやって、紅夜は軽いサンダルに体重を乗せて、ただふらふらと歩いていた。その場所も、昼間の騒がしさとはまた違った、けれど決して静かとは言いがたく、そこを行き交う人たちは皆早足で、どこかに帰る場所があるのを知っているように見えた。紅夜には行く場所なんてなかったし、行く宛なんてどこにもなかった。
(帰らんと、誰かに見つかったら、きっと心配する)
(でも多分・・・)
誰にも見つからないのだろうなぁと紅夜は思いながら、ひとりで小さく笑った。ホテルの住人は、深夜に他の部屋を訪ねて、ちゃんとそこで眠っているかなんて確認したりしない、誰も。ホテルのオーナーである立場の夏衣も、あのお節介な一禾でさえ。だからきっと、深夜にホテルを抜け出して街に出かけていることなんて、誰にも分かるわけがないのだ。誰かが紅夜の部屋を訪れない限り。そしてそれは、多分ほとんどゼロパーセントに近いことだから、きっと自分は見つからない。
(それがいいのか、悪いことなんか、全然分からんけど)
そうして紅夜が小さくまた笑った時だった。後方でクラクションの音がして、振り返ると見知らぬ黒の国産車がこちらに向かって走ってきた。はじめは自分以外の誰かにそれが向けられたものかもしれないと思って、紅夜は辺りをきょろきょろと見てみたけれど、紅夜以外にそこに立ち止まっている人間はいなかった。黒の車はすうっと車の間を縫うように通って、丁度紅夜の目の前で止まった。
「・・・何やってんだ、お前」
「唯ちゃん」
窓が開いて、そこから顔を覗かせたのは、保険医の唯だった。唯はいつもの気難しそうな顔をしていて、眉間にシワを寄せたまま面倒臭そうな表情で、今にも舌打ちでもしそうだった。そんなに面倒臭いと思うのなら、わざわざ声などかけなければいいのに、と思うけれど、そこが多分、唯本人にいうと絶対に否定されそうだから、紅夜はそれを口に出したことはないけれど、唯の優しいところなのだろうと思う。深夜に用事もないのに、ふらふら歩いているところを見つかって罰が悪いのと、寝巻き同然のTシャツで外をうろうろしていた恥ずかしさが相まって、紅夜は唯のその何かを追求しようとする視線から逃れたいと思った。
「こんな時間に、今何時だと思ってんだ」
「・・・ごめん」
嵐は唯のことを理解のある大人だと言うけれど、紅夜は唯は面倒臭そうな顔をするわりにはいつも心配してくれていたり、何かのときは助けてくれたりして、そういうところは口だけでこちらの事情に踏み込んでくる大人よりは、ずっと常識的な大人だと思っていた。それが嵐の言う「理解のある大人」とは少しニュアンスが違うことを、紅夜は分かっていたけれど、指摘したことはなかった。
「何やってんだ、お前は、こんな時間に」
「・・・うーん、なに?散歩?」
「お前の家、この辺りじゃないだろう」
「うーん、まぁそうなんやけど・・・」
言いながら罰が悪くて、せめてにこっと笑ってみたけれど、そんなものでは騙されないと言いたげな唯の眉間のシワは深くなっただけだった。そう言えば、唯にホテルの話をしたことがあっただろうか、どこにホテルがあるのか、唯は知っていそうな口ぶりだったけれど、それも嵐が勝手に話をしているのかなと、紅夜はその時、そんな風にしか思わなかった。
「どうでもいいけど、早く帰れよ」
「・・・唯ちゃんは何してんの?もうとっくに仕事終わってるやろ?」
「俺は大人だから何しててもいいんだよ」
「・・・なんやそれ」
何か説明できない事情でもあるのか、それ以外の何かなのか、顰めっ面で唯がそう言うのに、全くなんの理由にもなっていないと思ったけれど、そういうところは唯らしいとも思った。唯は視線を前方に戻して、ハンドルを握り直した。きっともう行ってしまうつもりなのだろう。
「俺は注意したからな、補導されても自分の責任だぞ」
「ちょぉ、待って」
車が発進する前に、紅夜がその開けたままだった窓を掴んで、唯は一瞬危ないと思った。紅夜の顔はどこか余裕がなくて、必死だった。
「・・・なに」
「何かちょっと・・・帰りたく、ないっていうか・・・」
「なに?反抗期なの、お前」
「反抗期とかそういう、ことちゃうわ・・・」
紅夜にしては歯切れが悪く、ぼそぼそとは喋るが、肝心なことは言うつもりがないようだった。例えば帰りたくない理由だったりとか。唯だって紅夜くらいの年齢の時、毎日家は窮屈だったし、家にいる時間というのが苦痛だった。紅夜の事情は少なくとも、嵐から別段唯自身は聞きたくないし、知りたくないと思っているけれど、嵐が勝手にベラベラと喋るので、事情は少なくとも知っているつもりだった。家族と暮らしているわけではない紅夜は、まぁそれなりに気も遣うし、心労もあるだろうと、唯は紅夜が考えていることとは、全く違うことを思いながら、手を伸ばして助手席の扉を開けた。
「・・・なんなん?」
「乗れば」
本当なら、面倒臭いことにはできる限り人生の中で巻き込まれたくないし、自分のこと以外のことに割いている時間が無駄であることを、唯は大人の裁量で十分理解していると自分では思っていた。けれど、何となくその時、そうやって俯く紅夜の気持ちが分からなくもないと思ってしまったので、そんな風に手を差し伸べてしまったのだと思う。紅夜は少しびっくりしたように、開けられた扉と運転席に乗ったままの唯の顔を交互に見比べていて、しばらくその場から動こうとしなかった。
「・・・ええの」
「ちょっと走ったらちゃんと帰るんだぞ」
「・・・はは、唯ちゃんってなんか」
言いながら紅夜は片手で顔を覆うようにした。唯はそれを見てぎょっとしたけれど、次の瞬間紅夜が手を離して、泣いているわけではないと分かったので、ほっとしていた、なぜか。
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