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海に落とした名前 Ⅲ
車の中はラジオも音楽もかかっていなかったから、ひどく静かだった。紅夜は窓の外を見るふりをしながら、この車はどこに向かっているのだろうと考えた。できるだけ遠くが良かった。車に乗っている時間が心地が良くて、辿り着かなければいいのに、と思うほどには。運転席の唯を見やると、唯はいつもの仏頂面でハンドルを握っていた。まるで自分から助手席の扉を開けてくれたようには思えなかった。
「どこ行くん、唯ちゃん」
「・・・別にどこも。お前が行きたいところがあれば連れてってやらなくもないけど」
「そんな優しいこと言うて、どうしたん」
「馬鹿か、産まれたその日から優しかったんだよ、俺は」
言いながら唯が鼻で笑って、気付いたら紅夜も笑っていた。不思議だった、明日ももしかしたらこんな風に、誰かと笑っていられる気がした。
(大丈夫なんや、多分)
(俺が思ってるより、ずっと)
心配しているのは自分だけだし、心を砕いているのは自分だけだった。それもそれで切なくて苦しかったけれど、同じ気持ちを背負わせたいわけではなかった。どうしたらいいのか、どうしたいのか、そんなこと分からなかった。だってはじめてだった、今までそんな気持ちになったことなんて、一度もなかった。だって紅夜の生活は誰かに、他人にそんな気持ちを育たせられるほどに、自分自身が安定しているわけではなかったから、いつも。他人のことなんて気にしたことがなかった。だからここでの生活は、今までのそれとは全然違うのだろうと思うけれど、体がまだそれに慣れていかないのだった。
「海が見たいなぁ」
「・・・海?」
ぽつりと小さく呟いたつもりだったが、静かな車の中では自棄に大きく聞こえて、そんなつもりではなかった紅夜は少しだけ焦った。唯が静かに聞き返して、紅夜は何となく、その時こんなことを言うべきではなかったのかもしれないと、唯の言葉を聞きながら思った。他にどんなことを言うのが正解なのか、そもそも正解なんてものがあるのか、紅夜には分からなかったけれど。
「と、遠いから無理やなぁ、別にええねん」
「海か、なんで?」
「ええって、なんかその、そう言えば最近見てないなぁって思っただけやから」
「別にいいけど」
捲し立てる紅夜の隣で、唯は何でもないことのようにそう言った。紅夜が恐る恐る唯の表情を盗み見ても、唯はそこでいつもの機嫌の悪そうな表情をしているだけで、それが自分のせいなのか、それともいつも通りなのか、紅夜には判別がつかなかった。
「唯ちゃんも疲れてるやろ、こんな時間に」
「まぁな、俺はいつも下らない仕事のせいで疲れてる」
「下らないって言うなや、自分の仕事やのに・・・」
学校の保険医になる前、唯が大学病院で医者をしていたらしいことは、そもそもは嵐が教えてくれたことだった。嵐は何かと唯と話す時間が多いようで、なぜそうなのかは分からないが、唯のことをよく知っているようだった。大方、興味本意で質問攻めにしているのだろうと思うが、その真意はわからない。それを別に頼んでいるわけでもないのに、なにか新しい情報を掴むと、紅夜に鬼の首をとったみたいに嬉々として教えてくれるので、紅夜も一応興味のある振りをしてみたこともあるけれど、本音を言うと唯のことを知りたいと思ったことはなかった。でも多分、学校の中には嵐のような生徒は多くて、そのほとんどが女子生徒だったけれど、唯は校内で見かけることが、そんなに多くはなかったけれど、見かけるといつも女子生徒に挟まれて、あからさまに迷惑そうな顔をしていることが多かった。そういう時に、自分の感情を隠そうとしない唯のことを、なんだか変な大人だなぁと思った記憶はある。多分、皆に平等にそうだったから、唯の周りを生徒がうろうろしているのは、唯のそういうところが新鮮で、他の大人とは違うということを、嗅ぎ分けているからだろう。
「唯ちゃんなんで」
「ん?」
「なんで大学の病院辞めちゃったん」
「・・・そんなの誰に聞いた」
「嵐、大体唯ちゃんのことは全部嵐から聞くから」
「あの、野良猫・・・」
猫と呼ぶには嵐は幾分生きが良すぎたけれど、唯にとってはどんなに鍵をかけても、保健室にするりと入り込んでくる野良猫みたいだった。
「あはは、まぁ嵐は唯ちゃんのこと好きやから」
「そんなことが理由になるか、べらべら喋りやがって」
誰かに話されるのが嫌なら、誰にも話さないようにすべきだった。だからきっと、唯が嵐に聞かれて答えていることなど、きっと唯にとってはどうでも良いことだったのだろうけれど、考えながら紅夜は更に深くなる闇に目を細めた。車のヘッドライトだけでは、物足りないくらいだった。
「なぁ、なんで辞めたん?」
「なんでそんなこと知りたいんだ。何でもいいだろ」
「嵐はセクハラちゃうかって言ってたけど」
「適当なこと言いやがってあいつは・・・」
多分、唯がその時そう言ったように、何でも良かったと思う。ただの会話の材料だったかもしれないし、深くなる夜が怖かっただけなのかもしれない。もしかしたら、紅夜はそうやって話していないと、他に考えたくないことを、考えてしまうと思ったからかもしれない。
「・・・ちょっと遠かったんだよ、家から」
「なにそれ?それが辞めた理由なん?」
「何だよ、時間は何より大事なものなんだぞ、お前は若いからまだ分かってないと思うが」
「分かるけど、でもなぁ・・・ほら引っ越すとかさぁ、いっぱいあるやん、他にもできること」
「お前は働いたことがないから、分からないだ。いいか、大学病院というのは今の比じゃないくらい忙しくてな」
唯がムキになったように捲し立てるのを半分以上聞き流しながら、本当は違う理由があるのだろうなと、紅夜は何となくそれ以上聞かなくても分かったような気になっていた。唯はそういう損得、利益不利益みたいなことに敏感だったから、きっと大学病院を辞めることは、その時色んなことを犠牲にしても、唯にとっては必要なことだったのだ。そしてその理由は、嵐が聞いても、紅夜が聞いても教えられるような理由ではないのだ。何だかそれは寂しかったけれど、教えられないと言わないのは、多分唯の優しさだと思った。
「あの馬鹿が今度同じことを言ってたら、ちゃんと訂正しとけよ」
「・・・あー・・・うん、分かったわ」
「ったく、教育現場っていうのは他に比べてそういうのに敏感なんだよ。嘘でもそんな噂が出回ったら俺は首を切られるんだからな」
「あー・・・せやなぁ」
だったらもう少し、女子高生と仲良くするのを辞めるべきだと思ったけれど、唯の迷惑そうな表情は、決して進んで彼女たちと仲良くしているわけではなくて、多分受動的だった、いつも。そういう意味でも、唯は絶対に教育現場には向いていないと思ったけれど、紅夜はそのことは口には出さなかった。唯が辞めると困るのは、きっと自分も同じだと思ったからだ。
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