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海に落とした名前 Ⅳ

「わぁ、海や」 コンクリートでできた人工的な階段を降りると、そこはもうアスファルトではなかった。紅夜は砂浜に降り立つと、自分が自分の体重で少しだけ砂に沈むのを楽しみながら、その時にはじめてサンダルで来て良かったと思った。それでも何歩か歩くと、サンダルの中に砂が入ってきて、紅夜はそれを脱ぐと手に持って、走り出そうとしてから気付いたように止まって、後ろを振り返った。 「唯ちゃん!」 「なんだよ、うるせぇな。大声で呼ぶな」 「なぁ、海やで!すごい!」 「知ってるよ、何はしゃいでんだ、みっともねぇ」 唯はというと、車から出てくるとコンクリートの階段の上に座って、そこから降りてくる気は無さそうだった。唯を待たなくて良いことが分かった紅夜は、サンダルを手に持ったまま、海の匂いと音がする方に走り出していった。海は暗くて、海水が届いている部分と、そうでない部分の境目が分からずに、きっと昼間だったら砂の色の変化で気付けるようなことが、その時は分からなかった。勢いよく海に突っ込んで行った紅夜は、急には止まれず、膝まで海に入ると、慌てて砂浜に引き上げてきた。 「冷たい!さぶ!」 「オイ、あんまり濡れるなよ、俺の車で帰るんだからな」 「ごめーん!もう結構濡れてしもた」 「はしゃぐな!いい加減にしろ」 わざと怒った声を出してみたけれど、紅夜は振り返って全く懲りていない顔をして、にっこり笑っただけで、なんの効果はなかった。大声で叫ぶために一度立ち上がった唯は、もう一度コンクリートの階段に座り直して、ポケットからタバコを取り出して、それを一本咥えた。紅夜が波打ち際で走り回っている背中だけが、暗い景色のなかでぼんやりと動いて見えた。 『優しくしてやれよ、何でもいいから』 あの日、嵐が保健室にやってきて、わざわざなんの用もないのにやって来て、まぁ嵐の場合、そういうことは決して少なくはなかったが、すがりつくようにそう唯に言ったことを、唯は勿論よく覚えていた。嵐に言われたから優しくしているわけではないし、紅夜は確かに「優しい」と言ったけれど、本当に優しい人間はこんなことはしないと思っていた。だったらどうして、その時紅夜のわがままに付き合ったのか、唯は良く分からなかったけれど、何となくそのまま放っておけなかったのも事実だった。 「唯ちゃん」 ふと視線をあげると、波打ち際で遊んでいたはずの紅夜が目の前に立っていて、何だか罰が悪そうにしていた。 「なに」 「ごめん、結構濡れたわ」 暗いせいで紅夜が濡れているのか、乾いているのか良く分からなかった。紅夜は脱いだサンダルを手に持って、裸足のまま唯の隣にすとんと腰を下ろした。ふわっと海の匂いがして、海の近くで生活したことなんて一度もないくせに、その匂いには少し懐かしさすらあった。 「もう気は済んだのか」 「うん、まぁ」 どっちにしても、煙草が終わるまでは車には戻れなかった。唯は雲ひとつない真っ暗な空に煙を吐き出しながら、俯いて自分の足の甲を撫でている紅夜に、何と言うべきなのか考えていた。もしくは何も言わないほうが良いかもしれないということを。 「あのさぁ、唯ちゃん」 「なに」 紅夜は俯いて、相変わらず海の水に晒されたであろう、足の甲を手のひらで撫でていた。そこについている砂が気持ちが悪いのか、もっと他の理由なのか、何なのかは分からない。唯からは俯く紅夜の旋毛しか見えなかった。でもその方が良かったかもしれない。表情が見えるときっと、紅夜の考えていることが少しは分かってしまうから、何も分からないほうが良かったかも知れなかった。 「あのな、俺」 「なに」 「京義のこと、好きやったかもしれん」 「・・・ーーー」 予想していない名前が、紅夜の口から出てきて、戸惑わなかったわけではない。唯は煙草を吸うのを忘れて、紅夜に目を向けたけれど、変わらずに見えたのは旋毛だけだった。 「・・・そうか」 「うん、変よなー。俺も京義も男やのに」 「変じゃないよ」 すると紅夜がぱっと顔を上げて、その顔は思ったよりも泣きそうだったから、紅夜のことだから何かふざけてそういうことを言っているわけではないことは、勿論分かっていたけれど、唯が考えるよりももっとずっと、紅夜は真剣にその事を考えているのだろうということは、その表情を見て分かった。だから顔なんて見ないほうが、ずっといいと思っていた。そのほうがずっと、きっと他人事でいられたから。そして多分、このことだけじゃなくて他のことだって、他人事でいたほうが、きっといいに決まっていたから。 「そうかな」 「これからは多様性の時代だ」 「・・・なに言うてんの、唯ちゃん」 へらりと顔を綻ばせて、紅夜が笑って、紅夜がそこで泣き出したりしなくて、唯は心底ほっとした。多分、唯が何を言っても、多少辛辣なことを言ったとしても、この少年は泣いたりしないとどこかで、高をくくっていたところもあるけれど。 「それで、なんか、帰りたくなかってん」 「そうか」 「はは、下らん、理由やろ」 「そうだな、下らん理由だ」 繰り返すと、紅夜はあははと暗い空に向かって笑った。 「自分でも変な感じ。今まで誰かのこと好きとか思ったことなかってん」 「・・・ふーん」 「だって俺ってずっとここに居れるわけちゃうやん、いつかまたどっかいかなあかんし。それに」 そうして紅夜は目を伏せた。 「諦められて良かった、このままやと、不幸にしてしまうところやった」 またその呪いのことを、さも当たり前みたいに呟くのだった。

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