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海に落とした名前 Ⅴ
「不幸にしてしまうところやった」
頭が良いくせにそんな非現実的なことを馬鹿みたいに信じてしまっている、紅夜は憐れだと思ったけれど、唯は何も言わずに煙草のフィルターを噛んでいた。こんな時に必要な慰めの言葉を、自分はひとつも持っていないのだと分かってしまったから。せめて黙っているほうが幾分かマシのような気がした。空は暗くて、そこに煙草の煙を吐くと、白く残ってしばらくそこに形を作っていた。紅夜にはそれを信じなければいけない理由があって、それを信じていたほうが楽な理由もある。それでも、それが分かっていてもなお、唯はそんなことを信じることは、全くの無意味なことだと言えた。
「そんなこと、本気で信じてんのか」
「え?」
「お前らしくもない、そんな非現実的なこと」
「・・・だって、今までずっとそうやってんもん」
紅夜は空虚な目を外に向けてそう言うと、少しだけ唇を尖らせた。まるで悪戯が見つかった子どもみたいだった。いつもは子どもらしくないと感じることが多い紅夜でも、そんな風に拗ねたりすることもあるのかと唯は、それを新鮮な気持ちで見ていた。
「だからって、これからもそうか、分からないだろ」
「・・・そうやけど」
長い睫毛をしばたかせて、紅夜は納得しきれない顔をしたままだった。手元の煙草がようやく終わって、唯はポケットから携帯灰皿を取り出して、その中に吸い殻を放り込んだ。この話はもうすぐ終わるし、もうすぐここから帰らなければいけない時間が迫っている。
「京義もおんなじように言うてくれてん。それはお前のせいじゃないって」
「・・・そうか」
「そうやって優しくしてくれた人たちのこと、いつか裏切ってしまいそうで怖いねん」
そうしてそれらしく呟く紅夜のことを、唯はそれでもまだ分からないと思ったけれど、俯いた後頭部が寂しそうだったから、もう紅夜のことを否定するのは止めて、手を伸ばして少し乱暴にぐしぐしと撫でた。すると紅夜がびっくりしたように、顔を上げた。それにどんな顔をしたらいいのか、唯には分からなかった。本当はそんなことはないよと言ってやりたかったけれど、そんな言葉に意味があるのかどうか、唯は分からなかった。言葉にすればするほど紅夜の空虚を助長してしまいそうで、安易には呟けなかった。
「・・・気ぃ済んだか」
「え?」
「もう家に帰れ、いい加減。そこまで送ってやるから」
「・・・ーーー」
目を伏せた紅夜の目尻辺りが濡れている。それが海水だったのか、それとも別の何かだったのか、唯には分からなかった。紅夜は俯いたまま、また足の甲を撫でた。もうそこには砂はついていなかった。何度か指を往復させても、紅夜は返事をしなかった。
「なぁ唯ちゃん」
「なんだ、帰る気になったか」
「・・・もうちょっとここにおろうや」
「なんで」
「ここにおりたいから」
か細い声で紅夜はそう言って、顔をあげた。目尻が濡れていると思ったけれど、それは気のせいだったのか、紅夜の目の回りは思ったより乾いていた。そのことに唯は少しだけ安心した。どうして自分がそんな気持ちになったのか、唯には分からなかったけれど。
「寒いからもう帰るぞ」
夜の空気はどちらかと言えば生ぬるかったけれど、唯はもうそう言って、紅夜の目を振り切って立ち上がる選択肢しかなかった。ここに留まったらもっともっと、この寂しさと一緒にいなければいけないことが、分かっていたからなのかもしれない。できればそんなものとは、一緒にいたくないと思ったのは、唯の本音だったし、紅夜も多分、これ以上一緒にいても仕方がないのは分かっていたと思う。
深夜を回った車の中は静かだった。エンジンの回る音しかしない。紅夜は学校で会うときよりもずっと静かで、いつも大抵煩かったから、こんなに静かにできるのかと唯は思ったほどだったけれど、ちらりと助手席に視線をやると、そこで紅夜はシートベルトに絡まるようにして、頭を垂れて眠っているようだった。当然である、もう時計は深夜を回っている。本当ならば紅夜はいつもなら眠っている時間なのだろう、何となくこの優等生は、きちんとした生活リズムで生きているのだろうということは、紅夜のいつもの様子を見ていると簡単に分かることだった。唯はそこで意識を手放して眠る紅夜を見ながら、小さく溜め息をついた。
(・・・寝るか、フツー)
唯は車を走らせながら、これからどうすればいいのか考えた。本当ならば、大人としてはあのホテルに紅夜を送り届けなければいけなかった。そのためには夏衣の薄ら笑いにも耐えなければいけなかった。考えただけでゾッとして、その選択が正しいことが分かっていても、幾ら分かっていても、それはできないと一瞬で思ってしまった。信号で車が止まった隙に、紅夜の肩を揺さぶって起こして、少しかわいそうな気もするけれど、近くまでは送るから、そこからは自分で歩いて帰ってもらわなければ、と思った。
「オイ、起きろ、相原」
「う、うーん・・・」
紅夜は眠そうな声を出して、しかし起きる様子はなく、そのままかくんと首の向きが変わっただけだった。唯は諦めて、手を紅夜の肩から離して、ハンドルを握り直すしかなかった。あのホテルに唯は近づくことができなかった。理由は幾つかあったが、それを乗り越えるには、まだ時間が必要だった。こんなアクシデント的な感じで踏み込んでいい場所ではなかった。
(どうするかな、これは犯罪には当たらねぇよな)
嫌な予感が一瞬したが、唯はそれを振り切るみたいに、ハンドルを強く握った。ホテルに紅夜を届けることができないのなら、唯にできることは限られていた。
『少しは優しくしてやれよ』
頭の中で、嵐が神妙な顔をして、いつもよりずっと神妙な顔でシリアスな声で、唯にそう言う。そんな優しさに意味があるのか分からないが、彼の純粋な気持ちに水を差すみたいで、唯は何も言えないでいた。そんなことに意味があるともないとも、どちらとも言えなかった。ちらりと助手席の紅夜を見ると、酷く無防備に眠っている。それが本当に修羅場を生き抜いていた子どもには見えなかった。もっと大人に対して信頼感がなくても不思議ではなかった。こんなにすぐになつくペットみたいに、よく知りもしない誰かの側で無防備に眠ってしまうなんて、危機感が薄すぎて逆に怖くなる。自分の爪が相手を傷つけることばかり考えていて、誰かが、悪意を持った誰かが、自分を傷つけるかもしれないことは、考えたりしないのだろうか。
(怖いよ、お前の、そういうところ)
なんだか似ているなと思ったのは気のせいではなかった、きっと。
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