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海に落とした名前 Ⅵ
目が覚めた。
(・・・あれ?)
目の前の景色がぼんやりとしていたけれど、それがいつもの自分の部屋の景色ではないことはすぐに分かった。紅夜はがばっと起き上がって、辺りを見回した。がらんとした部屋の中にぽつんと置いてあるベッドの真ん中にいるらしいと気付いた頃には、起き抜けだというのに目がすっかり冴えていた。
(どこや・・・ここ・・・)
全く記憶がない。とりあえずそろそろとベッドから降りる。自分の着ていたはずのTシャツは見慣れぬ黒いTシャツに変わっていた。
(おっきい・・・)
(えっと、確か、昨日は夜に抜け出して)
(それから唯ちゃんに会って、そっから・・・)
ベッドしか置いていない部屋を震える足で通りすぎて、部屋の扉を開けると、そこは廊下に続いていた。紅夜が廊下に出るとぱっと廊下の上の電気が反応して自動的に点灯する。きょろきょろと廊下を見渡して、玄関とおぼしき方向に行ってみると、そこには確かに昨日自分が履いていた汚いサンダルが、砂まみれになって無造作に置かれている。その隣にぴかぴかの革靴が置かれていて、そのちぐはぐさに頭が痛くなる。
(ここ、唯ちゃん家や)
多分、と頭の中で付け足しながら、紅夜は思った。昨日、海に行った後のことは忘れてしまったけれど、多分帰りの車で眠ってしまったのだろう。考えながら、玄関と逆方向の扉を見やる。そこは閉じられていて、その先に何があるのか、紅夜には分からなかった。
(今、何時なんやろ)
何となくの光量から、もう朝が近い、もしくは朝になっているのは分かっていた。今頃、ホテルでは突然自分がいなくなったことが、一禾や夏衣にばれているかもしれない。一禾とは違って、無断外泊が許されていないことなど、紅夜にはよく分かっていた。紅夜は少し迷ってが、廊下の一番奥の扉を開けてみた。寝室が必要なもの以外何も置かれていなかったみたいに、そこも自棄にがらんとした部屋だった。それだけに部屋の広さが目立っているような気がする。人気のないところだったが、ソファーの上に、人間大の何かが転がっているのが見えて、近づいてみるとそこに丸まっていたのは唯だった。ソファーの前に置いてある、ガラスのテーブルの上には、紅夜が持っていた携帯電話が置いてある。唯はその大きい体を器用に折り畳むようにして、丸くなって猫みたいに眠っていた。紅夜はその側に立って、しばらく唯の眠っている顔を見ていた。
(知ってる)
それはどこかで見たような顔だった。唯と会った時からずっと考えているのに、思い出せないでいるのはなぜなのだろう。
(変やなぁ、こういうこと忘れへんのに)
いつも機嫌が良くても悪くても、不機嫌そうに歪められている唯の表情も、眠っている時ばかりは眉間にもシワが寄っていることなく、酷く穏やかそうに見えた。紅夜がしばらく黙って唯の顔を見ていると、その時不意にテーブルの上にあった、紅夜の携帯電話が音を立て始めた。
「うわっ!」
携帯電話が着信音とともに、振動をテーブルに伝えて、静かだった部屋に響き渡る。慌てて紅夜が携帯電話を掴んだ。ディスプレイには夏衣の名前が光っている。
「・・・うるさい・・・」
夏衣からの着信を出るべきなのか迷っていると、唯がボソボソとそう言うのが聞こえた。紅夜が振り返って見ると、唯はソファーの上で眉間にシワを寄せたいつもの顔で、紅夜のことを見上げていた。手の中の振動はその内おさまって、部屋の中は再び静かになる。
「・・・唯ちゃん、おはよう」
「・・・おはよう」
顰めっ面のまま唯はそう言うと、被っていた毛布をばさりと払って、むくりと起き上がった。学校の中ではそれなりにきちんとした格好をしている唯も、その時は緩いTシャツを着ていて、眠そうに欠伸をする後頭部の髪の毛がぴょんと跳ねていた。
(寝癖ついてる・・・)
寝癖のついたままの唯はソファーから立ち上がると、そのままキッチンのほうに向かっていった。紅夜はどうしていいのか分からず、携帯電話の履歴をそっと見やった。今日は土曜日だったけれど、紅夜が毎日ちゃんと決まった時間に寝起きしているのを、ホテルの住人たちも知っているから、朝から一禾や夏衣が何度も電話をかけてきている履歴が残っていた。
「ホテルのオーナー?」
「・・・あ、うん」
キッチンにいる唯がコーヒーメーカーを操作しながら、何でもないことみたいに聞いてくる。紅夜は慌ててそう答えながら、携帯電話を握りしめて、ほとんど家具らしい家具のないリビングを横切って、キッチンのほうに近づいていった。コーヒーのいい匂いがする。
「唯ちゃん、昨日、ありがとう、迷惑かけてごめんな」
「・・・別に」
唯はコーヒーメーカーから視線を反らさずに、いつものようにぶっきらぼうにそう答えた。こぽこぽとコーヒーメーカーが音を立てる。
「こ、これ着替えさせてくれたん?ベッドまで貸してくれてごめん・・・」
「お前が海水まみれで汚かったからだよ」
「なんやその言い方」
唇を尖らせて言うと、唯は俯いたまま、ははと笑い声を漏らした。
(なんや、唯ちゃん、そうやって笑うんや)
何だかやっぱり、その表情には見覚えがあるような気がした。
「コーヒー飲んだら駅まで送ってやるよ、白鳥に電話しとけ。一応、お前のこと心配してたみたいだから」
「あ、うん・・・ありがとう」
コーヒーの匂いが部屋に満たされるまで後3分。
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