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海に落とした名前 Ⅶ
『紅夜くんどこにいるの!?』
何度目かの夏衣の着信に折り返しをすると、開口一番夏衣のそう叫ぶ声がした。起きたばかりの頭にそれがキンキン響いて、同時にくらくらする。心配をしてくれている夏衣には悪かったが、紅夜は夏衣の声が聞こえすぎないように、少しだけ耳から携帯電話を離した。
「ごめん・・・」
『起きたらいないし!心配したんだからね!』
夏衣は声の調子を変えずにそう言った。「心配」という単語はよく知っているようで、聞きなれないものだった。誰かが自分のためにそれを、使ったりするのかと、紅夜は全然関係のないことを噛み締めながら、持っていた携帯電話を握り直した。
「ごめんなさい」
『今どこにいるの?一禾が迎えに行ってくれるって言ってるから!』
「・・・えっと」
相変わらず夏衣の声の調子は変わらない。そこで「自分が行く」と言わないのが、夏衣らしいと思った。夏衣はあまり自分の運転に自信がないらしく、出かける時はタクシーを使うか、運転手をするためにわざわざ夏衣の「部下」という立場らしい人を呼びつけているようで、あまり自分では運転したがらない。紅夜は少しだけ迷いながら、運転席にいる唯のことを見やった。
「なに?」
「・・・えっと、どうしよ、唯ちゃん。ホテルの他の人が、迎えに来てくれるって」
「駅で下ろすから、そこまで来てもらえ」
唯は短くそう言うと、前を向いたまま左にハンドルを切った。紅夜はそれを聞きながら、駅まで戻れば、自分でバスに乗ってホテルまで帰ることはいつもしているし、できると思ったけれど、何となくそれを夏衣が了承しそうにないことも分かっていた。
「もしもし、ナツさん?駅まで来てもらってもええですか?」
『駅だね、分かった』
「すいません」
『いいんだよ、無事でよかった』
最後にいつものトーンで夏衣がそう言って、紅夜はそれになんと言ったら良いのか分からなかった。そんな風に言われたことは、これまでなかった。他の人なら兎も角、自分に対しても、夏衣が本当に自然に、普通にそうやって言ったりすることが、紅夜にはまだ少し信じられなかった。元々規範の中で生きていたから、夜中にこっそり抜け出したことなんてなかったのだが。
「・・・なんか、すごい、悪いことした気分や」
「悪いことしたんだよ、お前は」
電話を切って紅夜がそう呟くと、唯が同じように繰り返した。ちらりと運転席の唯を見上げると、勿論、その視線は紅夜のほうにはなかった。
「うーん・・・そんなつもりやなかったんやけどな、ちょっと散歩するつもりで」
「まぁ良いんだよ、ちょっとくらい、悪いことをしてもいい年齢なんだよ、お前は」
「えー・・・そうなんかなぁ」
紅夜にはよく分からなかったけれど、なんとなく唯の言いたいことは分かった。嵐を見ても京義を見ても、確かに規範の中に生きているとは言いづらかったし、多分その時唯が言いたかったことは、そういうことがなのだろうということは、曖昧に返事をしながらも、一応分かっているつもりだった。
「ちょっとは元気になったか」
「・・・ーーー」
そう言えば、どうして夜中にホテルを抜け出そうと思ったのか、どうして帰りたくないなんて考えたのか、本当に馬鹿みたいだけれど、紅夜はその時まで、唯にそう言われるその時まで、本当にすっかり忘れていた。昨日のことだったはずなのに、そんなことがあったのは何だか遠い昔の記憶だったような気がした。今思い出しても、昨日ほど胸が痛まないのはどうしてなのだろう、分からなかった。車がスムーズに駅前のロータリーに吸い込まれて止まる。思えば、その車の中は、どこか潮の匂いがするようだった。
「・・・うん」
そう言うと、唯は短く、「そうか」と呟いただけだった。
「紅夜くーん!」
唯の車から降りて、紅夜はしばらく駅前のロータリーに立って、一禾の車を待っていた。一禾の車はどれもぴかぴかの高級車だから、なんとなく遠くからそれだなと分かってしまう。今日は銀色のメルセデスだった。その後部座席に夏衣も乗っていたみたいで、紅夜が反応する前に、窓から顔を出して名前を呼ばれた。土曜日の駅前は、多分平日よりまだ人の流れは穏やかだったけれど、それでも人が多いことには変わりなく、紅夜は恥ずかしいやら何やらで、顔が熱くなる。
「ナツさん!」
「紅夜くん、もう、心配したんだからね!」
車に近づくと、夏衣は電話の時と同じ調子で、紅夜はそれに曖昧に笑うしかなかった。こういう時どういう顔をしたらいいのか分からなかった。
「ごめんなさい」
「とりあえず乗って」
後部座席に乗り込むと、そこはいつものなんの種類かは分からないが花のような、一禾の香水の匂いがした。一禾は車を沢山持っているが、そのどれもが同じ一禾の香水の匂いがした。当たり前だが、さっきまで乗っていた唯の車の匂いとは、全然違った。
「一禾さんも来てくれてありがとう」
「俺のことは別にいいよ、でも紅夜くんがこんな夜遊びするなんてねぇ、なんか信じられないよ」
「夜遊びって、ちょっと散歩してただけやし・・・」
「一禾が悪いよ!一禾が青少年の健全な成長に悪影響を及ぼしたんだ!」
「ちょっと待って、何で俺のせいなの?ナツのほうが悪影響じゃん」
「俺のどこが悪影響なんだよ」
「いつも変なことばっかり言ってるでしょ」
「変なことなんて言ってない!一禾はすぐ俺を悪者にする!」
「先に悪者にしたのはそっちじゃん」
何だか、一禾はこの状況を面白がっているみたいに、少しだけいつもよりも楽しそうだった。夏衣はこういう時だけ保護者の顔をして、きゃんきゃんと煩かった。夏衣と一禾がその内に紅夜そっちのけで、いつものように下らない言い合いをするのを頭の上でぼんやりと聞きながら、紅夜はすっかり朝になってしまった窓の外の景色を見ていた。それはいつもの、見慣れた景色に戻っていた、いつの間にか。
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