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誰にも言わないで

自分でもそれが「優しい」ことなのだと理解していた。どうしてその時そんなことをしたのか分からない。もしかしたら少年が神妙にそれを唯に説いたからなのかもしれないし、それは「同情」だったのかもしれない。柄にもないことをした、とコーヒーの匂いの満ちた部屋の中で考えた。床に落ちた毛布を拾って、ソファーに向かって投げる。もう一杯、コーヒーを飲んで、それからもう一回眠りたい気分だった。ソファーは眠れないわけではなかったけれど、多分、唯の体から見ると少し小さすぎた。その時、ポケットに入れていた携帯電話が不意に震えて、それを取り出してみると、知らない番号からだった。嫌な予感しかしなかったが、それに出ない選択肢が自分にはないことを、唯は知っていたのだろうと思う。 「はい」 『先生、もうお帰りになりましたか』 相手は名乗りもせずに、いきなり話始めた。唯はそれを聞きながら小さく溜め息を吐いた。それで相手が誰なのか、分かってしまう自分のことも、本当に嫌だった。憂鬱な気分だった。ろくに眠れていない頭で、一番無難な回答を考えなければいけなかった。 「帰った。お前も分かってるだろ」 『びっくりしましたよ。先生と紅夜くんがそんな関係だったなんて』 笑いながら電話の向こうで夏衣はそう言った。また全然種類の違う話をしていると考えるだけで、こめかみがずきずきと痛かった。駅まで送った時に、紅夜が電話口で唯の名前を呼んだ時から、本当は少しだけ夏衣に今回のことが伝わって、こんな電話がかかってくるのではないかと思っていた。勿論、あそこで紅夜が名前を出さなかったとしても、夏衣はホテルに帰ってきた紅夜に向かって昨日はどうしたのかと、絶対に聞くだろうし、そうすれば、紅夜は素直にそれに答えるだろう、疚しいことなど何もないのだから、そうすれば遅かれ早かれ、夏衣にそれが伝わってしまうのは時間の問題だったと言えるのだが。 「悪いが、俺は深夜徘徊してる未成年を保護しただけだ」 『あはは、分かってますよ。先生のことなら、何でも』 「いちいち訂正させるな、頭が痛い」 『それはそれは。申し訳ございません』 いつもの調子、唯の前では夏衣はいつもこの変に演技かかった調子だった、さっき紅夜と話していた声が、携帯電話の向こうから聞こえていたけれど、紅夜相手にはこんな風には話していないわけで、夏衣はわざとそうやって自分を怒らせようとしているのかもしれない、と唯は思った。夏衣と話している時は、何を話していても、大抵苛々していることが多かったから。そして夏衣は、唯が苛々した調子になればなるほど、その口角を引き上げて、実におかしそうに笑うのだった。 「大体、お前の管理不行き届きじゃないのか」 『ははは、それを言われたら、何とも言えませんねぇ』 「未成年の面倒を見ているなら、もう少ししっかりしろ」 『肝に命じておきます』 相変わらず夏衣の調子は、糠に釘でも打っているようだった。全く手応えがない。唯はとりあえず嫌味は全部言ったから、もう電話を切ろうかと思ったが、それはそもそも夏衣の方からかかってきた電話だった。そう言えば夏衣の携帯電話の番号は、登録してあったはずなのに、その時かかってきたのは全然知らない番号だった。夏衣が別の携帯電話で連絡をしてきたのか、何なのか、唯には分からなかった。 「・・・何か用か」 『いえ、紅夜くん無事に家に帰ってますよ。先生も気になってるかと思って』 急に夏衣がまともなことを言い出したので、唯はろくでもないことで連絡してくるなと言おうとしていた口をつぐんでしまった。 「・・・そうか、分かった」 『紅夜くんが会えたのが先生で良かったです。ありがとうございました』 夏衣は自棄に大人しく、自棄にまともなことを言うので、唯はまた混乱することしかできなかった。唯の記憶の中で、夏衣がまともなことを言っていたのは、唯が夏衣と知り合って間もない頃だけだった。はじめの頃は確かに、夏衣はこんな人間ではなかったと思うが、それも随分昔のことのようで、実際には数年しかたっていないけれど、唯には最早、遠い昔のことに思えた。 「・・・気色悪い」 『ははは、先生ならそう言うと思いましたよ』 そう言って夏衣はまた電話口で笑った。 『でも、先生がホテルまで送って下さっても良かったのに』 「・・・チッ」 本当はこれが言いたかったのかと思って、唯はさっきまで夏衣もまともな事が言えるのかと少しだけ感心したのを、返してほしい気持ちになった。どうせ夏衣が言いたいのはこれだけだった、分かっているのだ、電話がかかってきたその時から。電話の向こうにいる夏衣にも聞こえるように舌打ちをしたつもりだったけれど、そんなことで夏衣にダメージを与えられるわけがないことは、唯にもよく分かっていた。 「うるせぇな、それしか用件がないなら切るぞ」 『大事な用件ですよ、俺と先生にとっては』 そう言って、夏衣の笑い声が聞こえてきて、唯はいつでもそれに負けているような気がしている。勝ち負けなどどうでもいいことを、本当は知っているはずなのに。 『いつでも待ってますから。先生の気持ちが整った時は、いつでも来てください』 「・・・悪いが、そんな日は来ねぇよ」 『それはどうでしょう』 相変わらず演技かかった口調で夏衣が言う。 『そんなこと、誰にも分かりませんよ』 「・・・」 『あなたにも、俺にもね』 「・・・ーーー」 もう話すことはなかった。唯は携帯電話を耳から離し、切電するためにボタンを押そうとした。するとそれが夏衣にも分かったのか、ぶつりと夏衣の方から電話が途切れて、唯の手の中には通話が切れた画面が光る、携帯電話だけが残っていた。唯はそれを見ながら小さく溜め息を吐いた。最後の最後まで夏衣に一足先を読まれているみたいで気分が悪かった。頭が痛かった、こんな日は、はやくコーヒーを飲んで眠りたかったけれどそういう日に限って眠れないことも、唯は分かっていた。カーテンの隙間から侵入してくる朝の光は眩しくて、唯の半顔を目覚めさせようとしているようだった。 (そんな日は、来ねぇんだよ) (諦めろ、いい加減に) 誰に言うわけでもなく、そう思って唯は沈黙する携帯電話をポケットの中に仕舞い込んだ。それでもきっと夏衣は、その演技かかった口調と指先で、また唯の目の前に現れるような気がして、唯は朝の光の中でこめかみを押さえた。頭の痛い朝だった。

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