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真砂で城を作りましょ Ⅰ
夏は嫌いだった。汗をかく体はベトベトと気持ちが悪いし、軽やかに外を歩ける気温でもなくなる。服もなんだか決まらない気がするし、車内はいつもサウナみたいだし、湯だった頭はいつもみたいにスマートに動いてくれないのも嫌だった。
(はやく夏休みになってくれないかなぁ)
本当ならば染が思いそうなそんなことを、夏が近づくと一禾はいつも考えてしまう。夏休みまでもう少しだった。その前にレポートの期限や、試験があることを除けば、もう少し浮き足だっていても良かったかもしれないが、一禾は夏が嫌いだったし、夏の間はできるだけクーラーの効いた室内でじっとしていたかった。そこだけは染と意見が一致している。一禾にはよく分からなかったが、大人にも夏休みの概念はあるようで、パトロン達はこぞって海外のリゾートなどに遊びに行くものの、一禾は今まで一度もそれについていったことはない。誘われてもあまり行く気にはならないが、そういうところで楽しむのだとしたら、隣にいるのは自分ではない方がいいと、珍しく消極的に考えたりもしたせいだったかもしれない。
「お願いします」
レポートを受付の窓口に出すと、今日の日付の受理印が押されて、一禾は提出した証明書を事務員から受け取った。どうしようもない三流の大学でも、単位を取らないと卒業ができないし、適当でもなんでもいいから、それなりに大学生のふりをしておくことは必要だった。一禾はそれを鞄の中に無造作に放り込んで、期限の迫ったレポートを提出しに来る生徒で溢れ返っている事務室を後にした。まだ少しだけやらなければいけないレポートが残っていたので、それをいつ仕上げようか、今週末に一気にやってしまおうか、それとも平日の時間を見つけて、図書室でやってしまおうか、考えながら階段を降りる。階段を降りたところにカフェスペースが併設されていて、大学に通うほとんどの学生は、ここでお昼御飯を食べたりしていた。
(染ちゃんとキヨどこかな)
一禾がレポートを提出しにくる少し前、キヨから先にカフェにいるからとメッセージが来ていた。大学にいる間、基本的に同じ学部であるキヨと染は一緒にいるから、キヨがそこにいるということは、染も一緒にいるのだろう。特別に約束をしたわけではなかったけれど、ひとりだけ学部が違ってふたりとは別行動の多い一禾も、お昼だけは二人と一緒に食べることが多かった。
一禾は広いカフェテリアを歩きながら、きょろきょろと辺りを見渡して、染とキヨがいるだろうテーブルを探した。するとスペースの隅の方に、ふたりが座っているのが見えた。まだお昼を調達していない一禾は、今日は何を食べようかと考えながら、ふたりに向かって歩き始めた時だった。
「それはないだろ、流石にー」
「いやほんとに、ほんとなんだって!」
「いやいや」
「なんだよ、キヨ。なぁ、鳴瀬は信じてくれるだろ?」
「あはは、うん、まぁ、黒川がそこまで言うなら?」
「あ、ずりぃぞ。お前までそっち側につくなんて」
「ほら!キヨだけ!キヨだけだから」
黙っていてもそれだけで目を引く容姿であることの自覚は、染にも少しはあるようで、元々大人しい性格ではあったけれど、大学ではできるだけ目立たないように大人しくしているつもりのようだった。その染が、珍しく楽しそうに割りと大きな声でしゃべっていたので、その時少し離れた位置にいた、一禾にもその楽しげな雰囲気は伝わってきた。そのキヨと染の間に知らない男が見えた瞬間、一禾はみるみるうちに顔が乾いて、顔の表面がぱりぱりとひび割れるような感覚がした。
「あ、一禾」
「・・・ーーー」
何をやっていても、染のセンサーは一禾に反応するようにできているのかと思うほど、群衆の中から一禾を見つけだす染の能力は秀でていた。そう言って染が声をあげるまで、キヨは一禾が側まで来ていることに気付きもしなかった。染が立ち上がって振り返った方向を見ると、相変わらず大学生らしくない、ぱりっとした高級ブランドのシャツを着て、一禾はそこにぼんやり立っていた。
「いちかぁ、こっちこっち」
何となく、その一禾の顔を見た時に、まずいとキヨは思ったけれど、隣で一禾に手を振る染は、まるでそんなことを考えていない様子だった。キヨは気付かれないようにそっと隣に座る鳴瀬の顔を盗み見た。鳴瀬は鳴瀬で、そこで染と同じ方向を、つまり一禾のことを、ただ見ていた。
(多分、一禾は、コイツのことが嫌いなんだ)
他に言葉はあったかもしれないが、その時はそれ以上が見つからなかったから、そう思うしかなかった。鳴瀬が何かしたわけではない、鳴瀬のせいでは全然ないのだけれど、多分一禾は染の近くに誰かがいること自体を、それ自体を許すことができないのだ。
「あれ?」
キヨが危惧したように、一禾はテーブルまで来ないで、確かにこっちに向かって歩いていたはずなのに、くるりと背を向けると、すたすたと出口に向かって歩いていって、カフェテリアから出ていってしまった。状況を飲み込めていない染が、すっとんきょうな声を上げる。
「そういえばこんなこと、前にもあったね」
「・・・え?」
小さい声で、鳴瀬がわざと染には聞こえない程度の小さい声でそう言って、キヨは思わず聞き返した。
「一禾どうしたんだろ」
しかし、次の瞬間、染がそう言いながら椅子に座り直したので、キヨと鳴瀬の視線はその一瞬、染によって遮られてしまった。次に瞬きをした時は、鳴瀬は染の方を見ていて、キヨが聞き返したことなんて、まるで聞こえていないようだった。
「きっと忘れ物でもしたんだよ」
「そうかなぁ、まぁそれならいいけどさ」
無視されて不服そうな染が口を尖らせながら言うのを、鳴瀬はいつものように穏やかに慰めている。
(一禾、今回ばっかはお前の考えすぎだよ)
一禾の考えすぎではなかったことも、染の場合は決して少なくはなかったけれど、だからといって、決して多くもなかったと思う。一禾はいつも最悪の状況しか見えていないから、自分が安心できない間は、こちらの正論なんて耳に届かない。きっと今はそういう状況なのだと思う。染は確かに悪意に全く晒されたことがないみたいに、実際はそんなわけはなくて、ただ一禾が火の粉を見つけ次第消火しているだけで、火事になったことがないだけなのだが、全く暢気でそれはこちらが心配になるほどだったが、実際にそんな危険な悪意なんて、この世に存在しているのだろうか。その近づく全てを警戒して回らなければいけないほどの悪意なんて。キヨにとってみれば、一禾のそれは杞憂以外の言葉では説明できなかった。
(一禾、お前は考えすぎだよ、いつも)
そう呟いたって、一禾が頷いてくれないのは分かっていた。
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