259 / 302

真砂で城を作りましょ Ⅱ

『もしもし、どうしたの』 仕事中かと思ったけれど、思ったよりはやくのぞみは一禾の電話に出て、こちらからかけておいてなんだが、そのことに一禾は少しだけびっくりしていた。 「のぞみちゃん、今仕事中?ごめんね、変な時間に電話かけて」 『いいよ、今事務所に誰もいないから』 彼女は一禾から見たらこの厳しい社会の中で立派に働いていて、所謂俗っぽく呼ぶならばキャリアウーマンと呼ばれるようなカテゴリーの人間だったけれど、彼女が何の仕事をしているのか、そういえば一禾は知らなかった。そんなことは知らなくても、彼女との関係には何にも支障がなかったし、そんなことにその時まで一禾は興味を持ったこともなかった。ただ仕事を愛している彼女はそれなりに稼ぎがあって、たいした趣味も友達も彼氏もいなくて、もしかしたらいたのかもしれないけれど、一禾はその片鱗を彼女から感じたことは一度もなかった、その稼ぎを持て余しているということだけが、一禾にとっては重要だった。それだけを知っていれば、他のことなど一禾と彼女を繋ぐ意味合いの中では些末なことだった。 「急にごめん、今日、のぞみちゃんの家に行ってもいい?」 『今日?別にいいけど』 「ありがとう、なんか晩ご飯作ってあげるよ、何がいい?」 『・・・何かあったの?一禾』 正しい返答はそれじゃなかった。食べたいものを答えて欲しかった。一禾はその続きを考えながら、何も出てこない唇を舐めるしかなかった。 「なんで?」 『何となく。声が苛々してるから』 勿論、どうかしていると思ったけれど、他にどうしたらいいのか、分からなかった。一禾は他の方法なんて何も知らなかったから、自分のできる方法で、自分の傷を舐めるしかなかった、いつも。 「いちか」 呼ばれた気がして一禾は目を開けた。白いシーツのうねりに、朝の光が反射して酷く眩しく見えた。ぱちぱちと何度か瞬きをしてみたけれど、起きる気には到底なれなくて、その光を遮断するみたいに自分の上にかかっている軽い素材のブランケットを引っ張った。それで視界を遮って、光から逃れようとしたけれど、起き抜けの一禾の力より遥かに強い力でそれが引っ張られて、呆気なく手の中からそれはなくなってしまった。遮断するものがなくなった一禾は、仕方なく体を丸める。 「一禾、もう朝だよ、いつまで寝てるの」 「・・・眠いんだよ、静かにしてよ」 「だーめ、起きて、買い物付き合ってよ」 「・・・えー・・・」 口先で文句を言っても、一禾から奪ったブランケットを片手に持っているのぞみは、一禾のそれを聞き入れる気はなさそうだった。のぞみは一度一禾の頭を起こすことに成功して、それで満足したのか、一禾に向かって一度は奪い取ったブランケットを放り投げると、下着に一枚キャミソールを着ただけの格好で、寝室から出ていった。一禾はベッドの中でもぞもぞと動いて、のぞみが放り投げたブランケットで視界を覆った。何も考えたくなかったから、できればもう少し眠っていたかった。気を抜くと昨日の染のまるで一禾の考えていることなんて、気にしていない間の抜けた顔を思い出してしまうから、できるだけ何も考えないでいたかった。 (この匂い・・・なんだろ、のぞみさんの香水かな) はじめて嗅ぐような匂いだったのに、自棄に安心できる匂いだと思った。そうやってできるだけ自分の正常な部分を溶かして、本当のことなんて見えないようにしておきたかった。 (なんにもしたくないのになぁ) ここはきっとそういうことが許される場所だった。ホテルから離れていれば、染の側にさえいなければ、その回りを飛び回る煩い虫のことを気にすることもなかった。だって側にいなければ、それに気付くこともないから。気づかない自分でいたかったし、できれば鈍感に生きていたかった。そういう訳にもいかないけれど、自分がこんなに心を砕いて、必死にやっているのに、染が全くそんなことに無頓着なのも、腹立たしいし許せないと思う。気付いたら奥歯を強く噛んでいて、一禾は慌てて力を抜いた。 『一禾もきっと仲良くなれるよ、俺がなれたんだから』 こっちの気もしらないで、よくそんなことが言えると思う。その時に怒鳴らないで、優しく笑うことができた自分のことを褒めてやりたいくらいなのに、染は一禾がそんな風に思っていることなんて、一ミリも気付いていないに決まっていた。それを恨めしいと思っても、それは染のせいではなかった、だから染のことを恨むのは筋違いなのだと分かっている。 (分かっているけど) (俺はいつまでこうしてなきゃいけないの) 誰かにそれを命じられたわけではないのに、一禾はその不毛さに目眩すらする時がある。自分の意思ではじめたことだったから、いつでも自分の意思で辞めることができるはずなのに、まるで未来永劫、この苦しさから逃れられないような気もするのだ、不思議なことだけれど。 「いちか!」 またのぞみの声がして、目を閉じてうとうとしてしまっていたことの気がついた。抱き締めていたブランケットはまた引っ張られて、一禾の側からするする離れていく。こんな風にいつか、強い力で誰かが自分から染を取り上げてしまうことを、一禾は一番恐れていたけれど、もしかしたらその時を待っていたのかもしれない。もう今の気持ちを引きずったまま、側にいるのも苦しかったから。 「起きてよ!いい加減」 「・・・のぞみちゃんこっち来て」 眠たい頭に、のぞみの声がキンキン響いて痛かったから、黙らせる方法を探していた。一禾が半分シーツに顔を押し付けたまま、そうやってのぞみの言葉に答えずに、名前を呼んだことで、多分のぞみは一禾がしようとしていることを、瞬時に見分けたみたいに、その眉間にシワを寄せた。 「いかない、そんなんじゃ騙されないから」 「・・・かわいそうな俺のこと慰めてよ」 甘えた声で名前を呼べば、すぐになつく種類のペットみたいに、女の子はいつも簡単だった。のぞみの怒ったような表情に、わずかに動揺が走って、一禾は乾いた下唇をぺろりと舐めた。 (あぁ、こんなに簡単なのに、なんでひとつも上手くいかないんだろう) (本当に優しくしてほしい人には全然理解してもらえなくて) (かわいそうな俺) ベッドの側まで寄ってきた、彼女の細い腰に腕を回しながら、一禾はひとりで考えた。言葉に出したら本当になりそうだったから、とても誰にも言えなかった。

ともだちにシェアしよう!