260 / 302
真砂で城を作りましょ Ⅲ
いつも車でホテルと大学の間を行き来しているので、染にとってはバスに乗ってホテルに帰るということが、そもそも重労働だった。外はどこもかしこも暑くて、日陰の逃げ場なんてどこにもないし、バスは電車にみたいに正確に走っていないせいで、時間になってもバスは来ないし、いつまで待っていれば良いのかも分からなかった。それでもそのバスに乗らないとホテルに帰ることができないので、染は出来るだけ身を小さくして、夏になるとそんなには目立たなくなるサングラスのしたできょろきょろと世話しなく眼球を動かしながら、それでもバス停で立ち尽くしていることしかできなかった。
「ただいま」
談話室の扉を開けて中に入ると、外の気温と比べものにならないくらい、部屋の中は涼しくてほっとした。ダイニングテーブルにはいつものように夏衣が座って、夏衣の読んでいる本は統一性がいつもないけれど、今日は派手な表紙の旅行雑誌を読んでいるようだった。染が扉を開けた音に反応して、夏衣は言葉よりもゆっくり顔を上げると、顔の上で微妙にずれていた眼鏡を触って定位置に戻す。その視線から逃れるみたいに、染はこそこそと壁伝いに歩いて、サングラスを外した。
「おかえり、染ちゃん」
「おかえりー」
談話室には紅夜もいたようで、染の位置からは見えなかったが、声だけは聞こえる。染は大学の授業に必要な教科書やノートが入っている重たい鞄を床に置いて、ほとんど定位置になっているソファーの方にふらふらと歩いていって、そこにぼすっと座った。
「あちー、しんど」
「あれ?一禾は?」
夏衣が談話室の外を扉から覗くみたいにしながら言う。そんなことをしても外の気配は感じられないことが分かっているから、それはただのポーズにすぎなかった。勿論、それをすぐに聞かれることは分かっていたから、染もバスに乗って帰りながら、一体どうやって説明したらいいのだろうと考えていたけれど、帰っている間に勿論いい考えなど浮かばなかった。
「あー、うん」
だから曖昧に答えるしかなかった。だって染だって、分からなかった。誰かが知っているなら教えてほしいくらいだった。どうして一禾がカフェテリアで確かに目が合っていたはずなのに、急にどこかに行ってしまったのか、その後も連絡しても全く返事が返ってこないどころか、既読もつかなくなってしまったのか、染だって聞かれても分からなかった。鳴瀬は「きっと忘れ物をしたんだよ」と言っていたけれど、一禾がこうして連絡を急に絶つ時は、絶対に女の子の家に行っている時で、おそらく今回もそうに違いなかった。事情の分かっているキヨだけは渋い顔をして、「俺も連絡してみとく」と言ってくれていたが、それは慰めにはならなかった。
「・・・え?どういうこと」
「分かんないけど、多分、今日は帰ってこないよ」
「女の子のとこ行ったん?」
紅夜が呆れたように呟くのに、頷きながら染は「多分」と付け足すをの忘れなかった。何となくだが、一禾がホテルからふらっと行き先も告げずにいなくなってしまうのは、ある周期があって、そろそろいなくなるかもしれないと、染は誰にも言わずに、一禾の背中を見つめていたこともある。けれど、あんな風に突然、自分の目の前から消えてしまうことはなかったので、行くにしてももう少しやりようがあったのではと思うが、勿論、染はそんなことを一禾に言える立場ではなかった。
「そうなん。またえらい急やなぁ」
「変だね、一禾、今日は朝、夜何食べたいか聞いてたのに」
「うーん、まぁ。急に呼び出されたりしたんだよ」
「多分」と染は慌てて最後に付け足した。何で一禾のことを庇うようなことを、自分が言ったり考えたりしなければいけないのか分からなかった。染にとっては得体の知れない、誰なのかも知らないし、おそらく何人かいるみたいだけれど何人いるか知らない、その女の子が一禾に何をしてくれるのか、染には全く分からないし、どうしてその子達を優先するのかも、染は知らない。一禾に聞いたこともないし、多分この分では一生そんなこと聞くことはできないだろうと思っている。
「帰ってこないんだったら仕方ないかぁ、夜は各自準備する感じで」
「カップ麺とかあるん?」
「あるよー、一禾がいなくなった時用の備蓄があるから、皆そこから好きに食べていいよ」
「やったぁ!なんかテンション上がんな、こういうの!」
一禾が時々いなくなることは、そんな風に夏衣が食料を準備しておくほどには、ホテルでは当然のことになっている。はじめの内は驚いていた紅夜も、ここでの生活が一年も経てば、そのことにも随分と慣れてしまった様子だった。楽しそうな紅夜の声を聞きながら、染はソファーに横になった。まだ体の中の熱が全部冷めているわけではなくて、奥に燻っているような感じがして気持ちが悪かった。
「あ、京義」
その時、談話室の扉が開いて、京義が顔を覗かせた。京義は一目で寝起きと分かるような、不機嫌そうな表情だった。紅夜がほとんど反射で名前を呼んだことにすら、鬱陶しそうに眉間にシワを寄せるだけで、それには返事すらしなかった。京義がこんなに不機嫌でも、談話室に降りてくるのはお腹が空いた以外の理由は多分ないことも、ホテルの住人は皆分かっていた。
「飯は?」
「京義、今日一禾帰ってこないから、急遽カップ麺パーティーになったよ」
「いつからパーティーになってん」
ふざける夏衣の隣で紅夜が冷静にツッコミながら、いつもは一禾しか入らないキッチンの中のあまり使っていない収納庫の扉を開けていた。
「・・・ふーん、なんで?」
「なんでって、なんか分かんないけど」
答えにはなっていない曖昧なことを言いながら、夏衣は困った様子でソファーに横になっている染を見やった。すると京義の鋭い目も動いて、染の上で止まる。まるで染ならその問いに答えを持っているはずと期待するような視線に、染は逃げ出したくなる。染だって知らなかった、教えて欲しかったし、できるならそういう目をする方の人間でいたかった。
「・・・ふーん」
「な、なに・・・?」
京義は確かなことは言わずに、意味深にそう呟くと、染も真実を知らないことを、それだけで悟ってしまったみたいだった。そして理由を知らない染には全く興味がないようで、すぐに染から目を反らすと、欠伸をしながら後頭部をがりがり掻いた。
「京義はどれがいい?どれにする?」
「どれでもいい」
「えー、せっかくやし、どれか選びぃや」
「俺辛いのにしよっかなー、染ちゃんどれにするの?」
遠くから夏衣の声がする。どうでもいいと思った。どれでもきっと味は一緒なのだ、染にとっては。
ともだちにシェアしよう!