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真砂で城を作りましょ Ⅳ

翌日、学校に行きたくはなかったけれど、午前中に試験があったから行かない選択肢は残念ながら一禾にはなかった。のぞみの家から学校は車で数分の距離だったから、ぎりぎりまで眠っていようと思ったけれど、結局朝早く出ていくのぞみと同じ時間に起きてしまった。一禾のために用意されたパジャマ代わりのメンズのTシャツを着て、一禾は独り暮らしの決して広くはないリビングの二人がけのソファーに座ってぼんやりとしていた。のぞみはいつものルーティンなのか、化粧をしながらコーヒーを飲んでいる。 「今日学校行くの?」 「うん・・・まぁ、行きたくないけど、試験があるから。受けないと単位落としちゃうし」 折り畳んだ膝に額をくっつけて、ぼそぼそと一禾は歯切れ悪く返事をした。一日寝たら何か変わった訳ではなかったけれど、少しだけ気分はマシになったような気がした。気のせいかもしれないけれど、そうやって自分のことを騙していかなければ、一禾は生きていけなかった。 「試験かぁ、懐かしい響き。なんかほんとに一禾って学生なんだね」 「・・・だからずっとそう言ってるじゃん」 「あはは、ごめんごめん」 言いながらのぞみは笑って、アイシャドウを塗る作業に戻った。 「今日は家に帰るの?」 「うーん、どうしようかなぁ・・・」 「ま、決まったら連絡ちょうだい」 「うん」 衝動的に飛び出してきたから、染のことも勿論心配だったけれど、その他のホテルの面子のことも心配だった。一禾は自分の鞄の中からこの二日全く触らなかった携帯電話を取り出した。染とキヨから鬼のように電話がかかってきていたけれど、履歴は全部消しておいた。そういうのをいちいち見るのも億劫だった。こういう時、夏衣は割合放っておいてくれるので、オーナーとしてはもう少し管理監督すべきなのかもしれないが、一禾に限って言えば、正直詮索されないのは助かっていた。女の子たちは、一禾が部屋にいる時にあんまり携帯電話を触らないことを、喜んだりもするが、一禾にとっては携帯電話を見ることは、イコールいつもの自分に戻ることだったから、現実逃避の意味がなかったから、そうするしかなかった。 「彼女から連絡来てるの?」 「・・・彼女なんていません」 「あ、そ」 一禾には何がおかしいのか分からなかったが、おかしそうにのぞみは笑って、立ち上がって飲んだコーヒーのカップをキッチンに運ぶと、機能性のみを重視した黒の鞄を肩にかけ、まだソファーの上に座ってうだうだとしている一禾のことを振り返った。 「じゃあ、行ってくるから」 「うん、いってらっしゃい」 のぞみのことを見送って、一禾は小さく欠伸を奥歯で噛み殺した。閉められたマンションの扉を内側から見ながら、自分の需要は後どれくらいあるのだろうと思った。最低でも後5年くらいは、こうやって誰かにくっつけば、無条件で頭を撫でられて甘やかしてもらえるかもしれないけれど、きっとこれは長く続けられないし、他の方法を考えなければいけなかった。そんなもの、あるのかどうかも知らないけれど。 (めんどくさい) どうでもよかった、全部。 朝早く起きたけれど、結局のぞみの部屋を出たのは試験に間に合うぎりぎりの時間だった。ほんの数分、もしかしたら遅刻したかもしれないけれど、試験が始まる前に講義室に滑り込むことができたから、一禾の中では判定はセーフだった。学校で講義を受けている間は、違う学部の染やキヨと顔を合わせることはほとんどなかった。違う学部で不便だなと思うこともあったけれど、こういうメリットもある。一禾はシャーペンを動かしながら、適当に解答を埋めていっていた。 実際に回答用紙の回収が始まる時間は、試験の終了時間より少し前だった。一禾は試験時間の半分くらいで、全ての回答を埋めることができていたから、試験終了時間を待たずに、回答用紙を教壇に置いて、講義室を後にした。扉を開けたところに白いベンチがあり、そこに染が座っていたから、一禾は逃げ場のないところで不意をつかれて、ぎょっとして立ち止まってしまった。今日、染の予定がどんな風になっていたのか、一禾は全く覚えていなかったけれど、一禾が試験やレポートに終われている間、染も同じようなことで苦しんでいるはずだったから、染も試験やレポートがあったかもしれない。 「あ、一禾」 「・・・染ちゃん」 染はそこで相変わらず暢気な声を上げていて、まるでいつもと変わらない様子だった。染にとっても一禾にとっても、最早こんなことは日常から地続きのことで、取り立てて気にするようなことでもなかったかもしれない。珍しくひとりでいる染は、ベンチからひょいと立ち上がって、そうすることが当然みたいに一禾の後についてきた。一禾は染には気づかれないように、そっと辺りを見渡したけれど、どこにもキヨの姿はなかった。女の子の多い大学構内で、染がひとりになることを、一番嫌がっていることは知っていたから、きっと近くにキヨがいるはずだった。何となく染と二人でいるのは気詰まりだったから、せめてキヨがいてくれたらと思ったけれど、一禾から見える範囲にはキヨの姿はどこにもなかった。 「なぁ、一禾」 「・・・なに?っていうか、キヨは?なんで染ちゃんひとりでいるの?」 「レポート出しに行った。俺、昨日出したから、今日締め切りなんだよ」 相変わらず染の答えは暢気なものだった。それにしてもどうしてついていかないで、あんなところで待っていたのか、その間に女の子に声でもかけられたらどうするつもりなのか。一禾は考えながらまた奥歯を強く噛んでいることに気づいて、慌てて顔の筋肉を緩めた。 「染ちゃん、なんでついていかなかったの。あんなところにいたら女の子に声かけられちゃうよ?ひとりで対応できないんだから、構内ではキヨから離れないでよ」 「・・・だってキヨが」 「キヨがなに?」 染の声は不服そうで、一禾は早足で歩いていた足を止めて、そこで一度振り返った。廊下を少し過ぎて踊り場近くまで来たことで、人目を避けられることがわかったからかもしれない。 「一禾が今日、ここで試験だっていうから」 「ここで待ってたら、きっと会えるよって言うから」 つるりと青い目をして、染はまるでそれ以上、なんにも考えていないみたいにそう言う。一禾は本当はもっと小言を言いたかったけれど、それに何も言うことができずに黙ってしまった。 (人の気も知らないで、勝手なことばっかり) 言えなかった、何も。

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