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真砂で城を作りましょ Ⅵ
「じゃ、俺もう行くから」
兎に角、何に置いても言えることは、一禾には時間が必要だった。いつも時間が全てを解決してくれていたから、その時も時間に頼るしかなかった。それだけ最後に言い残すと、別に1階になんて用はないのに、一禾は踵を返すと階段を下りていった。
「オイ、いちか!」
その時、階段の踊り場から、一禾の背中にキヨはそう声をかけたけれど、それは一禾の足を止めるためのものではなかった。こうなったら一禾はきっと自分の話なんて聞こうとしないし、放っておくしかなかった。だからなんとなく、その時染と鳴瀬に見せるためだけのポーズにすぎなかった。証拠に、キヨはそこで声をかけはしたものの、一禾のことを追いかけることはしなかった。
「笹倉」
「あー・・・あいつ昔からあぁなんだよ、ちょっとなんか、放っといたらまた勝手に機嫌よくなるからさ、放っとこうぜ」
それで終わりだと思った。
「俺、様子見てくるよ」
その場で一番部外者のはずで、一禾の苛々の震源地でもある鳴瀬が急にそう言って、キヨはびっくりしたけれど、なんと言って止めたらいいのか分からなかった。鳴瀬は自分が一禾の苛々を誘発していることなんか、気が付いていないのか、それとも他の理由なのか、キヨには分からなかった。しかし、キヨがそれに返事をする間もなく、きっと返事をする時間をくれたら、自分は鳴瀬を止めていたと思うのに、鳴瀬は一禾を追いかけて階段を下りていった。踊り場には涙目の染とふたりで残される。
「うわっ・・・これまた・・・荒れるぞ・・・」
「・・・なんで?」
キヨはこの後、一禾が苛々して自分に八つ当たりしてこないかどうかが心配だった。キヨの目から見ると一禾はいつも考えすぎていたし、その割りには不快感情の扱い方が下手くそだった。しかし、当事者の染は状況を全く飲み込むことができずに、目をぱちくりさせているのだから、一禾も頭の痛いことだろうと思ったが、それを染に言っても仕方のないことだと分かっていた。
(にしても、鳴瀬のやつ、一禾に何言うつもりだ・・・?)
これ以上一禾の機嫌を損ねるようなことがなければいいのに、とキヨはひとりで思ったけれど、多分それが無理な願いであることも少しだけ分かっていた。
一禾は階段を降りて、一番近い扉から外に出ていた。外はじりじりと太陽がアスファルトを照りつけていて、日陰のないところに出た瞬間に、焼けるような暑さを感じた。午前中に学校に来た時に感じた暑さとは、また別の種類の暑さだと思った。一禾はポケットから携帯電話を取り出して、のぞみの名前を探した。今日はもう試験もないから、早めにのぞみの家に戻ってレポートでも書きながら時間を潰せば良かった。そのためにも兎に角、連絡だけはしておかなければいけなかった。
「上月!」
後ろから呼ばれて、振り返らずとも大体誰か予測がついたので、顔なんか見たくないと思ったけれど、一禾は仕方なく一度振り返った。そこには一禾の予想通りに鳴瀬が立っていて、一禾はまた自分が顔をしかめていることを自覚しなければならなかった。
「何なの?何か用?」
一禾は一度は足を止めたけれど、振り返って鳴瀬の顔を確認すると、また携帯電話を触りながら駐車場に向かって歩き始めた。鳴瀬が後からついてくるのが気配だけで分かる。駐車場は近くに植え込みがあるからなのか、日陰ができていて暑さは少しマシに感じた。
「黒川のことが好きなの」
「・・・ーーー」
後ろから鳴瀬の声だけが聞こえて、一禾はゆっくりと振り返った。今度は足を止めるしかなかった。
「なんで?」
「俺が黒川のこと触った時にひどい顔してたよ、自覚ないの」
「・・・俺と染ちゃんはそんなんじゃないよ、ただの幼馴染み、腐れ縁」
溜め息を吐きながら、一禾はできるだけ自分が落ち着いて見えるような声で、いつもよりゆっくり話した。心臓の鼓動がそれよりずっと早く耳元で聞こえて、自分の声がかき消されるほどだったけれど、きっと上手くいったと思う。思いたいだけなのかもしれない。
「そうは見えなかったけど」
「あ、そ。他人には分からないよ、俺たちのことは」
「・・・ふーん」
「でもそういうのじゃないから、染ちゃんと仲良くするのは構わないけど、変なことあの子に言わないでね」
それでこの話は終わりのはずだった。本当は染の回りをちょろちょろするなと言いたかったけれど、それを言ってしまうと、今までの全てが台無しになるような気がして、一禾はそうは言えなかった。ふたりのことはふたりしか分からないと思っている。ふたりだから分からないことも多かったけれど、ふたりだから分かり合えたことも、決して少なくなかったと一禾は信じている。一禾はまた前を向いて、駐車場の中を自分の車を探しながら、歩き始めた。もう鳴瀬が後ろをついてきている気配はしなかった。
「黒川は全然その気はないみたいだね」
少しだけ遠くから鳴瀬の声が聞こえて、一禾は足をもう一度止めることになったけれど、意地でも振り向かないつもりだった。
「その分じゃ相手にされてないみたいだけど」
しかし一禾の今までの話を聞いていなかったのか、鳴瀬はその爽やかな声色で一禾の背中に向かってそう続けた。一禾は仕方なく振り返って、何か策があったわけではなかったけれど、鳴瀬を黙らせるために何かを言わなければいけなかった。鳴瀬はその女の子が好きそうな爽やかな、嘘臭い表情を笑顔に変えて、一禾を見るとにこっと笑った。そうして大股で一禾に近寄ってくると、今度は何も言わずに、すっとこちらに手を伸ばしてきた。何をされるか分からなかったけれど、一禾は反射的に腕を上げて、それをガードしようとした。けれど、手に携帯電話を持っていたせいで、少しだけ腕が重くて反応が遅れた。ぶちっと耳元で音がして、小さい何かが熱せられたアスファルトに転がるのが目の端に見えた。
「ついてるよ、キスマーク」
にこっと笑ったまま鳴瀬はそう言って、自分首筋をとんとんと指で指した。一禾は慌てて、もうそんなことをしても何の意味もないのに、首を手で覆った。思い当たる節ならあった、思い当たる節しかなかった。一禾のぴかぴかの革靴の足元にはシャツの第2ボタンが糸をつけたまま転がっている。
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