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秘密なら守れるから

「お姉さんお金持ってる?」 はじめて一禾に会った時、確かに彼はそう言って笑ったのだった。 (また着信きてる) 電気のついていない暗いリビングのソファーに座って、のぞみは歯磨きをしていた。その側に、一禾の鞄が口を開いたまま置きっぱなしになっている。本人はそれをそこに無造作に置いてから、一度も中身を確認しないので、多分一禾が部屋に来てからそれは一歩もそこを動いていないのだ。部屋の電気が暗いせいで、液晶画面が光っているのが良く分かった。いけないことだとは分かっていたけれど、のぞみは一度振り返って、一禾が寝室にいることを確認した後、そっと手を伸ばして一禾の携帯電話を指先だけで摘まんでテーブルの上に引きずり出した。その頃には液晶画面は光を失っていたが、側面のボタンを押せば光を取り戻し、ロック画面が表示される。一禾は部屋にいる時はほとんどこれを触らなかった。だからのぞみもその中身を知らないし、ロック番号だって知る由もなかった。ただその画面一杯に、着信の通知だけが見えただけだった。 (『染ちゃん』・・・?彼女かな、変な名前) 一禾は彼女がいないと言うし、いたら多分こんなところには来ないと思っているけれど、それでもこんな夜中に何度も電話を掛けてくるような相手くらいはいるのだろう。それがどんな人間かはのぞみには分からなかったけれど。携帯電話を摘まんでまた同じように鞄に戻して、のぞみはソファーから立ち上がった。一禾のことは何も知らなかった。一禾が大学生であるということ以外は、多分ほとんど何も知らなかった。何も知る必要はなかったし、多分知ったら良くないことが起こりそうだったから、できるだけ知ろうとしないようにしていた。この部屋にいる時だけ、まるで彼女にするみたいに優しくされているだけで満足だったから、それ以上は求めてもどうせ与えるつもりがない相手に、望むだけ無駄だということも分かっていた。 (でも大事な人がいるんならこんなとこ来てちゃいけないんだよ) そうやって大人みたいに諭すこともできなかった。そうやって一禾が来なくなった暗闇を、見ることに耐えられないと思ったから。 「ほーら、一禾が早く起きないせいで限定色売り切れちゃってんじゃん」 「ごめんって。でも残ってたのもあって良かったね」 「欲しかったのは売り切れてたの!これは二番目!」 限定色のアイシャドウが入った小さな紙袋を振り回して、のぞみが怒った声でそう言うのに、一禾は困ったように眉を下げて笑った。 「そう?でもこれものぞみちゃんに似合うよ、きっとかわいい」 「そうやって適当なことばっか言って・・・」 「・・・何か言った?」 小声で反論するのぞみの声が本当に聞こえていないみたいで、一禾が首を傾げるのを見ないようにしてのぞみは足を速めた。 「あれ?先輩?」 その時、不意によく知った声がして、のぞみは足を止めた。すれ違ってすでに何歩か先を歩いていたらしい西利が戻ってきて顔を覗き込むようにするので、目を反らすこともできなくなってしまった。何か疚しいことをしているわけではなかったけれど、なんとなく職場の人間と仕事以外の場所で急に会うことは、こちらの気持ちのスイッチが切り替わっていないような気がして、のぞみにとってはできれば避けたいことだったけれど、どうやら明るく声をかけてきた後輩の西利にとってはそうでもないらしい。のぞみは慌てて顔をにこやかな表情にして、不快だと思っているのがばれないように取り繕った。 「あれ、偶然」 「ほんとですねー、先輩何してるんですか?」 「何って、別にほら、買い物だけど」 西利の茶色い大きな瞳がのぞみの体の上を不自然に動いて、そして後ろに立っている一禾のところで止まってから、そう言えば、今はひとりでいなかったのだということに気づいて、のぞみは慌てて振り返った。一禾は思ったより側に立っていて、最早他人の距離感ではないのは明白だった。 「こんにちは」 一禾はいつものように人の良さそうな顔をして、にこにこ笑ったまま西利にそう言った。西利の目がきらきらと輝くのが分かって、のぞみは他人のふりでもしてくれたら良かったのにと思ったけれど、それを伝えるタイミングなどまるでなかった。 「こんにちは、えー、もしかして先輩の彼氏ですか?めちゃくちゃイケメン~しかも年下じゃないですかぁ?」 「え、あー・・・彼氏ではないんだけど・・・」 「またまたー!先輩彼氏いないって言ってたのに、嘘じゃないですか、もー」 「いつものぞみちゃんがお世話になってます」 なぜか自分のことのようにテンションの高い西利に肩をばしばし叩かれて、のぞみは何も言えなくなった。ちらりと一禾の方を確認すると、一禾は相変わらず嘘みたいな笑顔でにこにこと笑って、西利に頭を下げている。それを見ながら西利が目をきらきら輝かせているのに、なんとか取り繕わないといけないと思う気持ちがどんどん冷めていくような気がしていた。 「今度一緒にごはんでも行きましょう、ね!」 「あー・・・うーん・・・?」 その後、西利も予定があったのか、すぐに手を振って別れてくれたのが、のぞみにとっては唯一の救いだった。軽やかに去っていく西利のふんわりしたスカートを眺めながら、のぞみは小さく溜め息を吐いた。そうして黙っている一禾の方をちらりと見やる。 「ごめんね、一禾。合わせてくれてありがとう」 「面白い人だね、職場の人?」 「あー・・・うん」 「彼氏だって言えばよかったのに」 「だって面倒くさいじゃん、写真見せてとか、どこで知り合ったんですかとかそういうこと一杯聞かれるのもしんどいじゃん。それにごはんに連れてきてくださいーとか、絶対言うよ、あの子」 「あはは、その時は呼べばいいじゃん」 そうやって一禾は、何でもない風に言ったけれど、そんなことは多分できないのだろうなと思いながら、のぞみはその時何も言わなかった。そんなことをここで明らかにしても意味がなかった。ならばそうだねと言って、笑っていればよかった。 (一禾は私が来て欲しいときは、来てくれないじゃん) まるでそんなことを望んでいるようなことは、嘘だとしても言えなかった。昨晩、暗い部屋の中で見た、ディスプレイの中に、いつか一禾は帰るために、今ただここにいるだけなのだと、分かっていても時々、その手を離す日なんて、本当は来ないのではないかと思ってしまうから、夢見る時間が長い分、きっと思っているよりもずっとたちが悪かったけれど、だからと言ってそれを一禾に伝えることもできなかった。一禾はのぞみの前に現れたときからずっと、きっと変わっていなかったから。

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