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僕ら最後の晩餐に Ⅰ

夏休みに入ってから、染の日常は平和だった。とにかく外に出なくても、もっとも、染の外に出る用事など、いつも学校と決まっていたので、一禾に小言を言われることもなかったし、平穏無事な部屋の中で何かに怯えることもなく、ごろごろしていられた。高校生の二人とは違って、大学では宿題というものが存在しなかったので、レポートや試験に終われる必要もなかった。そうしてしばらくの日々を漫然と過ごしてしまったツケが回ってきたのか、その日の午後、染の元に一通のメールが届いた。 『染くん、今週末バイトどう?』 例に漏れず、滝沢からのそれだった。染は携帯電話を握りしめて、冷房の効いた部屋の中を、冷や汗をかきながらぐるぐると歩き回って、それにどう返信をすべきか考えていた。 (どうしよう・・・断るのは・・・) (いや、でもこの間頑張るって決めたところだし・・・) 本当は勿論、断ってしまいたかった。自分からそんな場所に飛び込みたくはなかったけれど、一方では染の後ろ髪を引くものもあった。染は部屋の隅にあった『オペラ』の先月号を引っ張り出した。それは勝手に一禾が買ってきたものだった。一冊あげると渡されたけれど、染はそんなものできるだけ自分の見えないところに置いといて欲しかったので、本当は要らなかったけれど、一禾が自棄に良い笑顔で渡してきたので、要らないということもできずに、受け取ってしまった。本棚の一番端っこに突っ込んだまま、おそらく見ることはないだろうと思ったけれど、こういう時に背中を押してくれるのは、それだったかもしれない。何度見ても見慣れないが、その表紙は自分で、見る度に脳みそが処理しきれずにくらくらする。 (俺には無理なのに・・・) 溜め息を吐いて、雑誌を本棚に戻す。断ろうと思って携帯に手を伸ばした時だった。それが急に震えて音を出しはじめたので、染はびっくりして思わず手を引っ込めた。 (誰だ・・・) ディスプレイを見ると『滝沢』の字が見えて、喉の奥がひゅっと狭まる気配がした。しかし、滝沢には大体部屋に引きこもっていて用事もないことも、大学が休みなことも、きっとばれていたので、ここで居留守を使うことも染にはできなかった。直接謝って行けないことを伝えたらいいかと、半分暢気に思っていたことも要因だったかもしれない。染は決心して通話ボタンを押した。 「もしもし・・・」 『あ、染くん?ごめんね、急に!』 「あ、いえ・・・」 電話口で明るくそう言う滝沢は、考えてみれば確かにいつも急だったけれど、そう言われても、謝られている気分にあまりならないのはなぜなのだろう。染は口だけでそう言ってみたけれど、全然気持ちが追い付いていないことに気づいていた。 『今週末来られる?』 「え、あの・・・」 『あのね、ちょっと絶対来てほしいなって思って、連絡したんだけど』 「・・・絶対・・・?」 逃げ場がないと思って、染はその言葉を聞きながら、さっきまで断ろうと思っていたのに、これはどうやら自分にはそういう選択肢のための糊代はないようだと気付いたのは、多分もう取り返しがつかなくなってからだった。 「あっ・・・はい・・・」 『良かった!じゃあまた迎えにいくから』 「・・・分かりました」 滝沢は仕事中なのか、用件だけを短く伝えると、すぐに通話は切れてしまい、染の手のひらの中には、沈黙したそれだけが残されてしまった。通話が終わった後の熱く熱を持った携帯電話を握りしめて、染は自分を慰めるために、ひとつ小さく溜め息を吐いた。 (なんか、最近、多いな) 滝沢は確かに染に『この世界でやっていける』と呟いたけれど、そしてその顔に嘘はなかったと思うし、滝沢は本気で自分にそう言ってくれているのだと、染はこれでも分かっているつもりだった。けれど染は勿論、そんな人前に出るような仕事が自分に向いているとは思っていない。でも、他のどんな仕事が自分に向いているのか、そもそも自分が仕事と呼ばれるものがひとつでもできるのか、その問いにも答えることができないでいる。滝沢の前に立つと、あやふやなことしか言えないことも、多分それが原因なのだ。滝沢は確かに、『やりたいことがあるならそっちを優先したら良いよ』と染に言ったこともある。それさえあれば良かった、断る理由になるから。でもそんなことは染の手のひらの中にはないのだ、ひとつも。 (いつかひとりになっても、俺って大丈夫なのかな) 一人になる未来なんてうまく描けない。今は誰かと一緒にいるから、それで人の形を保っていられるけれど、それが続かないことは、一禾にもいつも口を酸っぱくして言われているから、できるだけそんなことは考えたくないと染は思いながら、それを考えなかったことはない。 (あれ?でも、俺って、いつからこうなんだっけ) (こうなる前って、どうしてたんだっけ) もう冷たくなった携帯電話をベッドに投げて、それが音もなく布団に沈んでいくのを確認すると、染はもう一度本棚の前にしゃがんでみた。本棚の一番下の段には、卒業アルバムが並んでいる。小学校の時から、高校まで揃っている。染は高校の卒業アルバムに指をかけた。その時、染の自室をノックする音がして、染はアルバムから指を離して立ち上がった。 「はーい」 「染ちゃん?俺だけど」 「あ、いちか?開いてるよー」 自室に鍵はかからないから、部屋はいつも開いていたけれど、一応ホテルの中の数少ないルールとして、部屋にはいる前にはノックをすることと、主人のいない部屋には入らないようにと決まっていた。扉を開けて入ってきた一禾は、料理の途中だったのか、いつもの紺色のエプロンをつけていた。 「一禾、どうしたの」 「いや、もうご飯だから呼びに来たんだよ。何してたの?」 「・・・えっと」 一禾にそう聞かれて、染はついさっきまで考えていたことを思い出そうとしたけれど、どうしてなのか思い出すことができなかった。 「・・・なんにも?」 「何それ、しかも疑問系」 「まぁいいよ、大したことじゃないし。降りるわ」 「うん、そうして」 そうして染が踵を返して部屋を出ていった後、一禾は本棚の前にしゃがんで少しだけ引き出された跡のある高校の卒業アルバムの背表紙をそっと指で押して奥に戻した。

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