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僕ら最後の晩餐に Ⅱ
そして週末、染は鏡の前でそわそわしながらサングラスを直していた。
「あれー?染さんどっか行くん?」
今日は学校に行く用事がないのか、いつもよりラフな格好をした紅夜が談話室にいて、洗面所から戻ってきた染にそう声をかけた。
「あー・・・うん、まぁ」
ざわざわする気持ちで紅夜に声をかけられているだけなのに、若干体を固くして、染は紅夜の視線から逃れるみたいに、そそくさと壁伝いに移動して、いつものようにソファーに座った。紅夜はその奇怪な染の行動を、ダイニングテーブルに座ったまま目だけで追いかける。
「またバイト行くんだって、染ちゃん、最近よく頑張ってるよね」
「え、ほんまに?また『オペラ』載るん?」
「の、載るか、どうか、知らない、けど」
いつもハイカロリーなおやつを食べている夏衣だったが、今日はチョコチップクッキーを食べている夏衣に、そうやって少し褒められたことが嬉しかったのか、歯切れ悪くボソボソ答える割りには、染の口角は少しだけ上がっているように紅夜には見えていた。
「えー、絶対載るやん、染さんすごいなぁ。最近、毎月載ってるやん」
「俺は染ちゃんが芸能界で天下を取る日も近いんじゃないかと思ってるけどね」
「それは無理ちゃう、流石に」
「えー、そうかな?」
「まず、女の子嫌い直さな」
「あー・・・まぁそうかぁ」
ふたりは染を他所に勝手にふたりで盛り上がっている。染はそれにツッコミでも入れた方がいいのかと思ったけれど、そんな余裕もあまりなく、ただ黙って聞いていた。キッチンに一禾がいるかと思って談話室に寄ってみたが、一禾はそこにはいなかった。買い物に出かけているのか、部屋にいるかどちらかだったが、滝沢が迎えに行くと言っていた時間が迫っていたから、買い物に出掛けているのだとしたら、出発する前に一禾に会うのは無理そうだなと考えながら、染は何度目か携帯電話で、時刻を確認した。
「あのさ、ナツ」
「あ、なに?染ちゃん、今度映像作品出てみなよ、CMとか」
「いや、俺、そういうのは・・・。俺が決めることでもないし・・・」
「そうなの?やりたいですって言ったらやらせてくれるんじゃないの?案外」
「そら需要と供給があってなあかんやろ」
「へー、染ちゃんならできそうだけど。静止画だけなんてもったいなくない?」
夏衣は本質とは全然違うことを言っていて、染はそれに苦笑いを浮かべることしかできなかった。
「そ、そうじゃなくてさ、一禾どこ行ったの、買い物?」
「えー、そうじゃない?大体この時間いつも買い物行ってる気がするけど」
「部屋におるか見てこよか」
「いや、いい。別に用事があるわけじゃないから・・・」
紅夜が親切でそう言ってくれているのは分かったけれど、何となくこんなことを、年下の紅夜に頼むのは流石の染でも気が引けた。膝の上で組んだ手の指の形を忙しなく変えながら、染は自分が落ち着ける方法が他にあったかどうか、それを考えた方がいいと思い直した。するとローテーブルに置いておいた携帯電話が急に震えて、染はそれをつまみ上げて震える指で通知を開いた。
『もうすぐ着くよ!』
それは思った通り、滝沢からの連絡で、染は溜め息を吐くしかなかった。よろよろと立ち上がって、重い足を引きずって扉まで行く。
「あれ、染ちゃん。もう行くの?」
「う、うん。行ってくる」
「頑張ってな、楽しみにしてるから」
「染ちゃんなら大丈夫だよ、緊張しないで」
「・・・ーーー」
自棄に明るく、まるで自分とは別の言葉で夏衣と紅夜がそう言って、背中を押してくれたおかげで、その次の一歩はそんなに足が重たくなかったことに、染は少しだけ驚いていた。ポーチに座っていつものスニーカーに足を突っ込みながら、染はふたりの言葉を反芻していた。
(そっか、一禾じゃなくても、大丈夫なのか、俺)
今までどうして選択肢が一禾だけしかないと思っていたのだろう、不思議だった。座って紐を結びながら、少しだけ口角が上がっているのが、珍しく染には自分でもどうしてなのか理解できていた。
「染ちゃん」
すると頭上から名前を呼ぶ声が聞こえて、ふっと顔を上げたら、一禾がスーパーの袋を持ってたった今帰ってきたところのようだった。いつも一禾が着ている仕立ての良いシャツや高級な時計に、庶民的な白い袋は全く不釣り合いだったけれど、それがいつもの一禾だった。
「一禾!」
「今から行くの?もう表にタクシー止まってたよ」
「あ、あぁ、うん・・・」
染のまるで懇願するような声色を受け流すみたいに、一禾は冷静に続けた。そして重そうなスーパーの袋を床の上に下ろす。染はそれを視線で追いかけながら、何か別のことを言わなければいけないと考えていた。そうでもしなければ、自分はここにいる理由がなくなってしまうから。
「お、俺、持ってくの、手伝うよ」
「いいよ、染ちゃんタクシー待ってたからはやく行ってあげた方が良いんじゃない?」
「えっ・・・あ、うん・・・そうだけど・・・」
曖昧なことを言いながら、それでも染がスニーカーを脱ぐわけでもなく、ポーチから出ていくわけでもなく、ぐずぐずとそこに居座り続けるので、一禾はそれを見ながら染には分からぬ程度に溜め息を吐いた。それをけしかけたのは確かに一禾だったのに、それを染が思ったよりも続けていることも、ef側もどうやら染に利用価値を見出だしていることも、一禾の計算外の出来事に違いなかった。そのことで一禾は、自分が染に冷たくしてしまうことの要因も、本当は分かっていたけれど、見ない振りをすることは得意だったから、簡単だった。
「染ちゃん今日何が食べたい?」
「えっ?」
「今日、染ちゃんの好きなもの作って待っとくから、頑張っておいで」
「えっ、やった、うん」
染が頬を赤く染めて、両手を握って純粋な目を、まるで純粋な目をしてそう言うのに、一禾は自分が抗うことができないことは分かっていた、例えばそれがどんなことだったとしても。
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