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僕ら最後の晩餐に Ⅲ

タクシーの中には滝沢は乗っていなかった。染は無人の、運転手は勿論乗っていたが、それ以外は無人のタクシーに乗り込んで、行き先はおそらく滝沢が既に伝えていたようで、自動的に動くタクシーに乗っているだけで、いつものスタジオの前までいつの間にか辿り着いていた。スタジオの前には、いつものように首から関係者のネームホルダーを吊り下げた滝沢が待っていて、タクシーが完全に止まる前に近づいてきて、染が降りる代わりにタクシーの中に首を突っ込んで、運転手に料金を支払っていた。 「染くん、来てくれてありがとう!」 「あ、はい、すいません・・・」 「あはは、何で謝ってるの?」 「あ・・・いや・・・」 内容のないことを言う染の背中を押して、滝沢がスタジオに続いている扉を開ける。そこには竹下の姿はなくて、染はそのことに少しだけほっとしていた。 「今日染くんが来てくれて良かったよ」 「・・・何かあるんですか」 スタジオの中は扉が多い。明るい白熱灯で照らされた廊下を進むと、今日の控え室に通されて、どうして自分の控え室だと分かったのかというと、名前が書いた張り紙が貼ってあったからで、それ以上でも以下でもない、そこではじめて染はずっと疑問だったそれを滝沢に尋ねることができた。 「あれ、俺言ってなかったっけ?」 「聞いてないです・・・」 「あ、そうか。ごめんごめん、なんかバタバタしてて」 言いながら流れるような動作で滝沢が椅子を引いたので、染はそこに座るしかなかった。確かに今日はスタッフが多い割りに、皆忙しそうに走り回っているような気がして、いつも騒々しかったけれど、今日はいつも以上のような気がしていた。 「今日、鏡利さんが来るんだ」 「あ、社長の・・・」 「それでちょっとバタバタしてるんだけどさ、染くんが来てくれて良かった。また会って欲しかったから」 「・・・ーーー」 そう言って滝沢はまるで他意がないようににっこりと笑ったけれど、染にはその意味が少し良く分からなかった。社長が来るから現場がバタバタしているのは理解できたけれど、染に理解できたのはそれくらいで、どうして滝沢が『また会って欲しい』と思っているのかについては、自分にはとても理解できない、と思ったけれど本当は心当たりなら少しあった。 「鏡利さんってすごい忙しい人でさ、大体いつも海外にいて、日本には滅多に帰ってこないんだけど」 「・・・はぁ」 「なんか最近、隙間を見つけては帰ってきてるんだよね、何してるのか分からないけど」 「へー・・・」 滝沢がその時、独り言みたいにそう言ったことは、染にとっては世間話のひとつであり、天気の話とそう変わらない、自分にとって関係のない話だと思っていたので、相槌も段々と適当になり、実を言うとあんまりしっかり染は滝沢の話を聞いていなかった。適当な相槌を打っていても、例えば黙っていたとしても、滝沢は元々割りとひとりで喋っていることが苦にならないような人だったし、染がそこでどんな反応をしていようとも、その時に限っていえばそんなに重要なことではなかった、おそらく。 「滝沢くーん、ちょっとー」 「あ、佐藤さんだ。はーい!行きまーす」 廊下の向こうから急にスタイリストの佐藤の声が聞こえて、滝沢はそれに軽快に返事をして、染の肩をぽんぽんと叩くと扉に手をかけてから振り返った。 「ちょっと待ってて、染くん。すぐ戻ってくるから」 「あ・・・はい」 そうして染にそう言い残すと、染が返事をするのもほとんど聞いていないくらいのスピード感で、滝沢は外にいる佐藤に向けてもう一度返事をしながら、バタバタと部屋から慌ただしく出ていってしまった。染は滝沢のいなくなったせいで、急激に静かになった部屋の中で、ぼんやりとただ椅子に座らされた格好のままで、ただ目の前の壁を見ていた。それしかすることがなかったから。 (なんか今日、やっぱり来なきゃよかったな・・・) 何となく、染は鏡利に会いたくないような気がしていた。それは勿論、以前efの下で本格的に働かないかと持ちかけられたことの返事を、今日迫られるのではないかと思うと、気が重いこともあった。そんなことはできないことは、滝沢の顔を見るたびに思い出して、滝沢の顔を見るたびに次こそはその話をしなければいけないと思うのに、その度に染の決心を揺らがせるような出来事が起こるので、返事はいつまでも延び延びになってしまっている。染は壁を見るのは止めて、目の前の机に顔の半分をくっつけた。そこは冷房の冷気でひんやりと冷やされていて、熱くなった染の顔を冷やしてくれるのに十分だった。 (できないのは分かってるのに、断るのは難しいな・・・) 今まで染は周りの人間から、こんな風に手放しで求められたことなんてなかったから、その腕や目が少しだけ心地よくて手放すのが惜しいような気もしているのだ、狡いのは分かっているけれど。それでもそれに賛同するのには、今の自分では紅夜の言うみたいに不十分だし、今は良くてもきっといつかボロが出るのは分かっていた。その時にがっかりされたくはなかったけれど、そうならないためにどんな風に努力をしたらいいのか、染には分からなかった。誰かに必要とされる自分のことを、上手く思い描くことができなかったから。 (女の子、とやっぱり普通に、喋れるくらい・・・はならなきゃ駄目だよなぁ・・・) (でもどうやってやるんだろ、一禾に聞いたら笑うかな) どうやら一禾が色んな女の子の家を渡り歩いているらしいことは、夏衣から間接的には聞いたけれど、その話を一禾本人としたことはなかった。なぜかは分からないけれど、一禾とはその話をしてはいけないような気がしたからだ。一禾の方からは勿論、その話を振られたこともない。どうして一禾が女の子の家を渡り歩いているのかは、染には分かるようでいて、分からなかったけれど、どうやら一禾は女の子と関係を作るのは上手いらしいということだけは分かっている。いつかキヨにその話をしたら眉間にシワを寄せて「あれを真似したら駄目だぞ」と呆れたように言っていたけれど、その意味も染には良く分からなかった。どうせ一禾のやることなんて、真似をしたくても染にはできないことばかりだった。 (俺って昔、女の子と普通に話せてた時とか、あったのかな) (うーん、よく覚えてないけど・・・小学生の時とか、普通にしゃべってた気がする・・・) (じゃあいつから、こんなことに) その事を少し前に確か考えていたような気もするけれど、結局自分の中でどういう結論に至ったのか、染はよく覚えていなかった。そんな昔のこと、昔のことでもないような気もするけれど、とにかく覚えていなかった。一禾に聞いたら一禾は覚えているかもしれないし、それをきっかけに思い出すことができるかもしれないと思ったけれど、どうして覚えていないのか分からない限り、なんだか少しだけ思い出すことは怖いような気もした。確証なんかひとつもないけれど、もしかしたら忘れていたままのほうがいいのかもしれない、とも。

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