269 / 302
僕ら最後の晩餐に Ⅳ
その時、扉がノックされた時、染はまだ机に半分顔をくっつけて、答えのないことをぐるぐると、染なりに考えているところだった。染は自分がどうでもいい、どうしようもないことを深く考えすぎる傾向があるのは、今まで一禾やキヨに散々言われていたから、これでも一応理解していた。その時、ノックをしたのはてっきり滝沢だと思った。それは滝沢がついさっき「すぐ戻ってくる」と言って出ていったからで、それ以上の理由はない。いやもしかしたら「すぐ」とは言ってなかったかもしれないが。
「あ、はーい」
だから顔を白い机にくっつけたまま、染はほとんど反射的にそう返事をしていた。そうしてそれに返事をするように、がちゃりと扉が開く音がしてから、すっかり冷たくなった頬を、温い温度が移った机から離して、それから扉の方を見やった。
「こんにちは」
「・・・こんにち、は」
そこには染の予想に反して滝沢ではなく、たった一人で鏡利が立っていた。見ただけで仕立てのいいものだと分かる紺色にグレーのストライプのスーツは、この時期には少し暑そうにも見えたが、スタジオの中は冷房が利いていたからもしかしたらジャケットを着ているくらいが丁度良かったのかもしれない。それがefの服なのか、それとも別のブランドのものなのかは良く分からなかったけれど、細身で背の高い鏡利に良く似合っていたと思う。一禾にもきっと似合う、一禾はもう少し色の薄いもののほうが綺麗かもしれない、染は飛躍した思考のままで、しばらく扉の前に立っている鏡利を見ていた。
「染くんひとり?」
「・・・えっ、あっ・・・」
染は鏡利がそう言ってから、鏡利は立っているのに自分は座ったままであることに気づくと、慌てて立ち上がって壁に張り付くようにした。それを見ながら、鏡利はおかしそうに肩でふふふと笑った。何だかその目の辺りの影に、見覚えがあったような気がして、染は少しだけほっとしていた。
「・・・ひとりです」
「みたいだね、座っていい?」
「・・・どう、ぞ」
鏡利が目の前の椅子を指差すのに、染はそれは自分のものではなかったが、ほとんど反射的にそう答えて、椅子を勧めていた。その後に、今度は自分だけが立っているのも変だなと思って、元々座っていた椅子を引いて、そこに腰を掛けた。
「今日ね、滝沢に頼んで染くんのことを呼んだの僕なんだ」
「えっ、あっ・・・はい」
「ごめんね、急に。来てくれてありがとう」
「・・・いえ・・・夏休みなので・・・」
染は答えながら、ほとんどその事は知っていたような気がしたから、今更鏡利に言われても、本当はびっくりなんてしていなかった。夏休みだと答えながら、それは真実だったけれど、そんなこと今鏡利相手に言って何の意味があるのだろう、と思ったけれどどうしようもなかった。
「それでさ、滝沢に頼んでおいたんだけど」
「・・・あ」
「染くんどうだろう、少しは考えてくれたのかな?」
「・・・ーーー」
鏡利が首をかしげて、染は自分の予測通り、鏡利がそれを聞きにきたのは良く分かった。自分の唾を飲み込む音が、自棄に耳元で聞こえてうるさく感じる。
「・・・お、俺には・・・荷が、重くて・・・」
「あれ、そう?」
震える唇で染がそう言ったのを、まるで鏡利の方はそうは予想していなかったみたいに、目を丸くしたのが、染には良く分からなかった。鏡利にだって多分、自分が使い物にならないことくらい分かっているはずだと、染は確信していたから。
「・・・難しいってこと?なのかな」
「・・・あ・・・はい。えっと、すみません・・・」
「そうなんだ、意外だな」
鏡利がその時、全く怒った風ではなかったことが、染にとっては少しだけ救いだった。鏡利は腕を組んだ後、しばらくその格好でひとりで黙ったまま、何かを考えているようだった。染は滝沢にはいつも上手く答えられずに、答えを先伸ばしにばかりしていたけれど、鏡利にはすぐに答えることができたことに、自分のそんな行動力に、少しだけ驚いていた。
「そっか、いや。残念だな。君みたいに綺麗な子は見られるためにあるみたいなものなのに、勿体ないな」
「・・・見られるために?」
「いや、うーん。何て言うのかなぁ、難しいけど」
「いや、俺なんて・・・全然、そういうのじゃないです」
見られることは、目立つことで、染にとってはそのどちらも苦手なことだった。だからこそ染にはそんな風に思うことは一生できない。鏡利はどうやら言葉を選んでくれているみたいだったけれど、そもそも鏡利がそう言ってくれていることが、そもそも褒められているのか、貶されているのかも染には分からなかった。だからそれは無意味な労力だったけれど、染はそんなことを勿論、鏡利に向かって言うことはできなかった。
「そんなことはないよ、君には才能がある、僕には分かるよ」
「・・・ーーー」
同じことを、いつか滝沢にも言われたような気がするけれど、才能とは一体何なのか、染には抽象的すぎて理解できないことだった。鏡利の色素の薄い瞳に見つめられていると、不思議に頷いてしまいそうで怖かった。それが人を魅了する才能なのだとしたら、鏡利のほうがきっとそういう意味では才能がありそうな気がする、何てことはとても言えそうになかったけれど。
「よし、君が大学を卒業するまでの間、僕らは待つことにするから」
「えっ・・・」
「回答を急ぎすぎたのも良くなかったな、余計なプレッシャーをかけて悪かったね、染くん」
「いや・・・」
「もうすこし自由にやってみて、それからもう一度話をしよう」
そう言って、鏡利は簡単に勝手にそんなことを決めてしまって、染は口をぱくぱく動かしながら、やっと断ることができたのに、と思ったけれど、それにはもう自分の選択肢はなかったから、ただそれだけはしてはいけないと思いながら、滝沢の時と同じように、頷くことしかできなかった。
「染くん、君は自分のことを全然価値がないみたいに思っているかもしれないけれど」
「えっ・・・」
「そんなことはないんだからね、自分のことをもっと認めて、優しくしてあげなくては駄目だよ」
「・・・ーーー」
鏡利は最後に、今までのトーンとは違ってひどく落ち着いて、染を諭すみたいにそう言ったけれど、染には鏡利が何を言っているのか、理解などできなかった。
ともだちにシェアしよう!