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ご馳走じゃなくても
「あれ、今日ハンバーグなの?」
ダイニングテーブルに座って、ついさっきまで推理小説を読んでいたはずの夏衣が、気付いたら随分近くに立っていて、他意はないのだろうが、一禾は少しだけ眉をひそめた。
「そうだよ」
「なんで一禾、そんな嫌な顔するのぉー!俺、何も変なこと言ってないじゃんー!」
夏衣が泣き真似をしながら抱きついてこようとしたのを、一禾は右手で制止ながら、さっきまで今の対応は流石に悪かったな、などと考えていたことは忘れてしまった。
「うるさいなぁ、変なこと言いそうだったからだよ!向こう行ってて」
「ちょっとくらいいいじゃん!一禾のけち!」
「ちょっとってなんなんだよ・・・」
諦めたように夏衣が嘘泣きをはじめるのに、一禾は溜め息を吐きながら、フライパンの中身をもう一度確認した。中身はもうそろそろ焼き目がついてきた頃合いだった。
「でも珍しくなーい?染ちゃんのリクエストでしょ」
「何で分かったの?」
「だってあの子ハンバーグとしか言わないじゃん。舌までお子さまだよねぇ」
言いながら夏衣はダイニングテーブルに戻って、さっきまで読んでいた小説をペラペラ捲りはじめた。確かに染にリクエストを聞くと、いつもハンバーグと言っていたような気がする。
「いつもリクエスト聞いたりしないじゃん、珍しいね、一禾」
「今日は特別」
「ちゃんとバイトに行ったから?」
「まぁね」
答えながら、それには色々複雑に思うこともあるが、一禾は一応そうやって頑張る染の気持ちに水を差してはいけないと思っている、これでも。
「あれ、今日なんなん?」
その時、紅夜が上の階から降りてきて、談話室にひょこっと顔を出した。京義はまだ寝ているのか、その姿は談話室にはない。ならば声をかけに行かなければならなかった。染もそのうちに帰ってくる頃だろう。また泣きじゃくっていなければいいけれど、考えながら一禾はポケットを探って携帯電話を取り出し、染に『ハンバーグできてるよ』とメッセージを送っておいた。
「今日ハンバーグだよ」
「へぇ、珍しい。あんまり一禾さん作らんよな」
「染ちゃんのリクエストだって、染ちゃんにだけは甘いよね、ほんとに」
「そういうわけじゃないよ。紅夜くんも何か食べたいものあれば教えて」
「えー、俺は何でもおいしいから。ハンバーグも好きやで」
紅夜は夏衣のいじけたモードに付き合いつつ、にこにこ笑ってそう言う。元々そういうものを選べるような環境にいなかった紅夜は、選択するということが、人よりも多分少し苦手だった。
「もうできるけど、京義はまだ寝てるの?」
「あ、起こして来ようか、俺」
「はいはーい!俺が行きます!」
「ナツはもう黙ってて。紅夜くんお願いしてもいい?」
「あ、全然。声かけてくるわ」
「ねぇなんで?なんで一禾は俺にそんなに冷たくするの?」
「京義にまた変なことしそうだから」
冷たく一禾がそう言い放つと、夏衣はまた怒ったように声を張り上げている。それを苦笑いで宥めていた紅夜は、そろりと立ち上がると、京義を呼びに談話室を出ていった。その時、携帯電話がポケットの中で震えて、一禾はそれを、多分いつもならどうせ女の子の確率が高いので、後回しにするけれど、今日は染の可能性があったので、それを先に見ようと思ったのかもしれない。
「・・・あれ」
「どうしたの、一禾」
「染ちゃん、今日ご飯いらないんだって」
「えっ」
一禾は携帯の画面を見ながら、自棄に淡々としていた。それを聞いた夏衣のほうが驚いていたほどだった。
「バイト先の人とご飯に行くことになったって」
「・・・いやぁ、そうかぁ、残念だねぇ」
「まぁ、そういうこともあるよね」
小さく呟いた一禾のそれが、本当にそう思っているようにも、同情を引こうとしているようにも感じて、夏衣はそれ以上何も言えないと思った。そういう時に、酷いと喚き立てないのは一禾らしいけれど、それはずっと一禾のやってきた優等生の仮面がそうさせることくらい、分かっていた。
「いちかさーん!」
その時、談話室の扉が開いて、そこから自棄に元気な紅夜と眠そうな京義がやっと降りてきた。夏衣は慌てて振り返って、紅夜にアイコンタクトを送ったつもりだったけれど、紅夜は何のことなのか、勿論だけれど分かっている様子はなかった。
「ええ匂いやなぁ、京義、今日はハンバーグなんやで」
「・・・ふーん・・・何でもいいけど」
眠そうに京義はあくびをして、椅子を引いていつもの位置に座った。夏衣はもう一度、キッチンの中にいる一禾に目をやったけれど、一禾はそこで女々しく携帯電話を握り締めていなくて、もうてきぱきと白いお皿に出来上がったハンバーグを盛り付けているところだった。そういう時に悲しいとか悔しいとか、そういう不快感情と一緒にいられない一禾は、まるでそういう感情を切り捨てるみたいにするのが、見ていて痛々しいと思うのだった、いつも。
「染さんは?まだ帰ってこーへんの?」
「いや、紅夜くん、あのね」
何も知らない紅夜は、暢気にそう声を上げて、染の不在を当然みたいに一禾に尋ねたりする。
「染ちゃん今日ご飯いらなくなったんだって」
「・・・えっ」
紅夜が短くそう声を上げて、ダイニングテーブルは静かになる。
「でも、でもでも、俺もハンバーグ大好きだし!楽しみだなぁ」
「俺も、俺も好きやで、一禾さん!」
例えご馳走でも、ご馳走じゃなくても。
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