275 / 302
檻から出すな肉食を Ⅱ
「ご心配なく、我々警察ですので」
「えっ・・・?」
先を行く相島を追いかけるのを一旦止めて、橋場は振り返ってジャケットの胸ポケットから手帳を取り出して、一禾の目の前でぱかっと開いた。そこに一体何が書いてあったのか、一瞬のことで一禾には分からなかった。ただ、彼が冗談を言っていたり、嘘を言っていたりするわけではないのだということは分かってしまった。橋場は一禾が息を飲むのににっこりと笑うと、先に行ってしまった相島を追いかけて談話室に入っていった。一禾は慌ててふたりの後を追いかける。
「どちら様ですか?」
談話室の中では、夏衣はダイニングテーブルに座ったままの格好で、小説を片手に持っていた。染はソファーに寝転がっていたようだが、今はソファーの後ろに隠れて、黙って入ってきた見知らぬ男たちを震えながら見ている。急に現れたふたりの男を眺めながら、夏衣は余りにも落ち着きすぎていると一禾は思ったけれど、その理由までは分からなかった。
「白鳥夏衣さん?」
「そうですけど」
相島が夏衣に向かってそう言った後、後ろに立っている橋場にまた目配せをしたのが、その更に後ろに立っている一禾にも分かった。橋場はひとつ小さく頷くと、ジャケットの胸ポケットに手をやったから、また警察手帳を出すのかと一禾は思ったけれど、そこから出てきたのは白い紙だった。
「我々、警察のものです」
「警察?」
「白鳥さん、あなたに逮捕状が出ている、署までご同行願えますか」
「・・・ーーー」
その白い紙を夏衣の方に向けた後、橋場は手早くそれを畳んで胸ポケットに仕舞うと、今度はそのベルト辺りから黒い手錠を取り出したのが、一禾の位置からよく見えた。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
その橋場の腕を後ろから掴むと、橋場は思ったよりすぐに動きを止めると、一禾の方を振り返った。もう橋場はさっきのようには笑ってはいなかった。
「逮捕状?どういう、ことですか。ナツは何にもしてない・・・」
「落ち着いてください、上月さん」
橋場ではなく、相島が静かに言って、一禾はどうして自分の名前を、名乗ってもいないのにこの男は知っているのだろうと思ったけれど、それを確かめている時間はなかった。ふたりの丁度間から、夏衣がダイニングテーブルに座っている姿が見える。
「ナツ、なに黙って座ってんのさ。逮捕状ってどういうこと?」
「えー・・・俺に怒られても、知らないしぃ」
夏衣は小首を傾げてにこにこ笑いながら、いつもの調子で、少なくとも一禾にはそう見えた、ふざけてそう言った。今、ふざけている場合ではないと怒ろうかと思ったけれど、心臓の音が耳の近くでしていて、それが煩くてうまく声にならなかった。
「な、何かの間違いです、とにかく、この人は逮捕されるようなことはしてないです!」
「落ち着いてください、上月さん」
もう一度相島が自棄にゆっくりしたトーン、同じ言葉で一禾を制した後、隣の橋場に目配せをするのが分かった。すると橋場が胸ポケットから先程夏衣に見せた白い紙を出してきて、それを一禾の目の前に広げた。その紙の白さに、処理が追い付かない頭がくらくらする。
「逮捕状ってここに書いてありますよね。白鳥さんには未成年者略取及び誘拐の容疑がかかってるんですよ」
「未成年者?誘拐・・・?」
「薄野京義くんという少年をあなたもご存じなのではないですか?」
「・・・けいぎ?」
はっとして一禾はその眼前に広げられた逮捕状を持ったまま、もう一度ダイニングテーブルに座ったままの夏衣を見やった。夏衣はそこで肘をテーブルについて面倒くさそうな顔をして、ただ黙っていた。確かに京義は得体の知れない少年だった。ある日突然夏衣がどこからともなく連れてきて、一緒に住むことを宣言されたが、そういえば、京義の家族やどうしてここに住むことになったのかということについて、夏衣は一度も説明をしたことがなかった。一禾も勿論、気にならなかったわけではなかったけれど、京義自身「家族はいない」と言っていたし、複雑な生い立ちのことを根掘り葉掘り聞くのは憚られた。そうしてここで一緒に住みはじめて一年が過ぎようとしているが、京義の家族らしい人たちが訪ねて来たことは一度もないし、京義もホテル以外の場所に帰っている素振りもなかった。だからそれが真実だと思っていた、今まで。
「やっぱり、京義くんはここにいるんだな」
「読み通りでしたね、それにしても長くかかりましたが」
男たちが小声で何か話しているのが、一禾には少しだけ聞こえたけれど、それに気をやっている暇はなかった。
「京義が、誘拐?どういうこと、親と話つけてたんじゃないの?ナツ」
「えー・・・だって親がいないって言ったの京義なんだけど。面倒くさいなぁ」
唇を尖らせて、夏衣は飄々と、まるで悪戯が見つかった子どもみたいに、不貞腐れたようにそう言った。そんなことを言っている場合ではない、そんな話をしている場合ではないと思ったけれど、もう一禾はそれを訂正している時間はなかった。
「ふざけないでよ!なに?ずっと、ずっとそうだったの・・・?」
「怒らないでよ、一禾」
笑いながら夏衣は立ち上がって、相島と橋場の前までやって来ると、両手を揃えて差し出した。ふたりの男は、夏衣を見ながら一瞬息を飲んで、じりっと後退する。
「ちょっと待って、待ってよ、ナツ」
「なぁに、大丈夫だよ、そんなに心配しなくても」
少しだけ俯いた格好で、夏衣はにこりと口元だけで微笑んだ。一禾には夏衣が一体何を言っているのか、分からなかった。相島が側にいる橋場だけに聞こえるような小さい声で、「わっぱ」と呟くのが、耳元を掠めていく。橋場はベルトにくっついている手錠ホルスターからそれを取り出すと、夏衣の細くなった手首にがちゃんと音を立ててはめた。とても大丈夫だなんて思えなかった、夏衣が薄く微笑むようにそう言うのを、それでもまだ、全然信じることなんてできなかった。
「ナツ、嘘でしょ」
「ごめんね、一禾。皆のこと、よろしく頼むね」
「・・・そんな」
「大丈夫、すぐ戻ってこられるよ」
何の根拠もないくせに、そうやって笑うから。
ともだちにシェアしよう!