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檻から出すな肉食を Ⅲ
若手の方の刑事、橋場に手錠の上にジャケットをかけられて、まるでドラマのそれのように付き添われながら、夏衣は不気味なほどにいつもと同じ様相だった。まるで随分前からこうなることが分かっていたみたいに、勿論、そんなことはあり得ないと一禾は信じていたけれど、その自棄に落ち着いた格好や、全く抵抗したり弁明することもしない様子は、まるでそんなことが無意味であると知っているかのようだった。そうして夏衣の痩せた背中が談話室から出ていくまで、一禾はそこから視線を動かせないでいた。
「誘拐?そんな・・・」
「・・・上月さん」
一禾がふっと視線を上げると、そこには相島の姿がまだあった。
「なんですか」
「薄野京義くん、今どちらに?」
「・・・京義なら、学校に行っていると思います」
「なるほど、学校ですね。我々は一旦署に戻りますが、京義くんを迎えに来ますので」
「・・・ーーー」
何がなるほどなのか、一禾にはほとほと分からなかった。聞いてもこの男は一禾の欲しい答えはくれないだろうから、一禾は聞くことを諦めて、ただ黙っていた。だからよろしくと言われたのか、家から出さないように言われたのか、一禾の混乱した頭では、その時理解できなかった。
「すいません、誘拐というのは・・・本当に、本当なんですか?」
「ショックでしょうね、わかりますよ。一緒にお住まいだったんですもんね」
穏やかな相島の声が、自分を馬鹿にしているように聞こえて、一禾は苛々しながら、絶対に分からないくせに「分かりますよ」なんて分かりやすく嘯く相島の顔を見ていた。
「京義は親がいないって自分で言っていたんですが・・・」
「そうなんですね、父親から捜索願いが出されていましたよ。親子喧嘩の末の家出ですかねぇ」
「・・・はぁ」
そんなことで見ず知らずの人間と一緒に、一年以上も離れて暮らすことがあるのだろうか。一禾は全く理解できなかったが、口から曖昧な相槌だけが漏れていた。
「まぁ若い子は時々あることですよ」
「・・・」
「何人かで共同生活をされていると聞きましたが、他の方は大丈夫ですか。何かありましたらお伺いしますので」
相島は愛想良くそう言うと、一禾に向かって名刺を差し出したけれど、一禾はそれを受けとる元気もなかったので、相島は一禾が名刺を受け取らないと分かったら、ダイニングテーブルの上にぽんとそれを置いた。一禾はそれを無意識的に視線だけで追いかける。紅夜のことが一瞬頭を掠めた。紅夜も身寄りがいないと言っていたし、夏衣とは面識はないようだったが、遠縁だという理由だけで、ここに連れてこられてきたはずだった。
「それでは失礼いたします、お邪魔しました」
「・・・ーーー」
男が頭を下げるのを見ながら、一禾は何か言うべきだと思ったけれど、それに何かを言うのも癪だったので、ただ黙っていた。相島がそうやって談話室から完全に出ていってもまだ、一禾はそれが信じられなくて、閉められた何も言わない扉の方を見ていた。
「・・・一禾」
「・・・染ちゃん」
しばらくしてソファーの後ろに隠れて、ずっと一連のやりとりを見ていた染が、刑事の気配が完全に消えてから、やっとそこから這い出てきた。そして一禾の名前を後ろから呼んで、そこではじめて一禾は我に返った。これからどうすればいいのかを考えなければいけなかったけれど、考えるだけの余裕がもう一禾にはなかった。ふらふらと染がさっきまで寝転がっていたソファーに近づき、すとんと腰を下ろした。意識せずとも、深く溜め息が出る。染はそんな一禾の後を追いかけるようにして、同じようにソファーに座った。
「・・・一禾、大丈夫か・・・」
「大丈夫じゃないよ・・・こんな、なんでこんなことに」
染が目を泳がせながら、おろおろとしている。こんな時だから自分がしっかりしなければいけないと思うのに、一禾はそれ以上考えられなかった。
「京義・・・父親がいたんだな」
「ほんとに家出少年だったんだ・・・ナツも知らなかったってこと?」
「う、うーん・・・知ってたら多分、こうはならなかったよな」
確かに夏衣は『そういうこと面倒くさいし』と言っていた。夏衣に面倒くさがりなところがあるのは知っていたし、分かっているつもりだったけれど、その結果にこんなことが待っているなんて、夏衣だって予測していなかったに違いなかった。それにしては落ち着きすぎていた夏衣の態度のことは引っ掛かるが。一禾は異常に熱を持っている左のこめかみをぐっと押さえた。
「何で黙ってたんだよ・・・」
「な、なぁ、一禾、どうなるんだ?これから・・・ナツは大丈夫だよな・・・」
「知らないよ、そんなこと」
どうして京義は黙っていたのか、そしてどうして夏衣はその素性をしっかり調べておかなかったのか、今さら後悔しても遅いが、確かに一禾も京義がはじめてここに連れてこられた時、脈絡も説明も何もなくて変だなと思ったけれど、そのことを夏衣にも、そして京義にも追求しなかった。多分、その時はそんなに他人に興味がなかったこともあるし、他人に構っているほど、一禾自身も余裕がなかったこともあるかもしれない。まるで犬猫を拾ってくるみたいな気軽さで、その時夏衣は京義を連れてきたけれど、本当に「拾ってきた」とは思わなかった。自分達がここで暮らすことについては、夏衣と契約書を交わしたから、きっと京義の時も紅夜の時も同じだと思っていた。それにふたりはまだ高校生で、未成年だ。きっとそれも良くなかった。
「・・・イライラするなよ、一禾」
「確かに・・・ごめん・・・」
自棄に素直に謝る一禾の額には、薄く汗が浮かんでいる。ちらりと染を見やると、染は自分よりもずっと落ち着いているように見えた。こんなことがあった後なのに。
「ねぇ、染ちゃん。俺たち、家族みたいに一緒に暮らしてたけど」
「・・・うん」
「知らないことが、きっと多すぎたよね」
何が悪かったのかと言えば、きっとそれなのだろうと思いながら、一禾は談話室の天井を見上げた。見慣れているはずのそこが、今日に限って言えば、はじめて見たような景色だった。こんな風に、もしかしたら自分達は大事なものをずっと見ないようにしながら、表面的にただ穏やかな毎日を装っているのではないのかと思った。そんな家族ごっこに意味はなかったけれど、多分そこからお互いに深く踏み込むことを恐れていたのだ。それは一禾だけではなくて、きっと他の誰でも。
「俺はそんな風には思わないよ」
染だけがそんな風に呟くことも、分かっていたような気がする。
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