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檻から出すな肉食を Ⅳ
「・・・前にもそう言ってたよね、染ちゃん」
「え、そうだっけ?」
「どうしてそう思うの、俺なんか、今回のことで怖くなっちゃったよ」
そう言って、一禾は鳥肌の浮いた腕を撫でた。今まで考えたことなど一度もなかったけれど、やはり自分達は寄せ集めの他人でしかなかったことを、今回のことで分からせられたみたいで悔しいような、寂しいような、それでいて裏切られたような気持ちが沸いてきて、それを一体誰に向かってぶつけたら良いのか、一禾にはまだ良く分からなかった。染はその汚いものなんか、一度も見たことがない表面がつるりとした目をして、青い顔をする一禾に向かってにこりと笑った。
「だって皆、俺にとっては家族みたいなものだし」
「・・・家族、か」
「一禾だってそうだろ」
「そうかもね」
染も自分も本当の家族がどんなものなのか、知らないからこんな暢気なことが言えるのかもしれないと思ったけれど、一禾はそうやって無邪気に笑う染のことを、絶対に嫌いにはなれないのだと分かっていた。一禾はそうやって笑う染を見ながら、無理矢理に口角を上げた。嘘でもいいから少しでも落ち着いていなければいけなかった。そうやって自分も、無垢にただ、何かを信じることができれば良かったかもしれないけれど、そんなことを望むにしては、自分は少し汚いものを見すぎている、と一禾は一人で考えた。
「ただいまー」
その時、静かだった談話室にそう紅夜の元気な声が響いて、一禾ははっとしてすぐに立ち上がった。それから少し遅れて、染も慌ててソファーから立ち上がる。紅夜はいつものように談話室の扉から入ってくると、すぐに持っていた重そうな鞄を床に下ろした。
「ただいま、外めっちゃ暑かったー!ジュースもらっても構わん?」
「紅夜くん!」
「えっ?なに?」
いつもの調子で明るくそう言うと、手でぱたぱたと自分に風を送って涼もうとしている紅夜の肩を掴んで、一禾は自分でもびっくりする勢いで紅夜に迫っていた。紅夜はというと、一体何が起こっているのか分からず、頭の上にただはてなを浮かべている。
「京義は?一緒じゃないの?」
「京義?え、一緒やけど・・・?」
はっとして振り向くと、紅夜からワンテンポ遅れて、談話室の扉からそのブリーチされた白い髪の毛がのそりと顔を覗かせた。今しがたここであったことなど何も知らないであろう京義は、のんびりと欠伸をして、自分には何も関係ないと言わんばかりに勝手にキッチンに入ると、紅夜と同じように暑かったのか、冷蔵庫からりんごのジュースを取り出している。
「あ、京義、俺にもちょーだい」
「・・・知らね、自分でやれ」
「何でやねん、ちょっと注いでや」
一禾に肩を掴まれたままの紅夜は、少し遠くにいる京義に聞こえるように、少しだけ声のボリュームを上げる。いつもの風景だった。何ら変わりがない。
「・・・一禾さん?」
そう紅夜に呼ばれるまで、一禾はまた自分がぼんやりしてしまっていたことに気付いた。紅夜は心配そうにこちらを覗き込んでくる。
「何かあったん?大丈夫?」
「・・・あ、いや、ごめん」
そっと紅夜の肩を離すと、一禾はもう一度キッチンにいる京義に目を向けた。京義はそこでガラスのコップにジュースを注ぎ、余程暑くて喉が乾いていたのか、珍しく立ったまま飲んでいる。
「京義がどうかしたん?」
「あ、いや・・・」
それをこの子どもに、一体どんな風に説明したらいいのか、一禾は混乱しながら考えた。話してしまったら全部、この生活ごと全部、消えてしまうのではないかと思うと少しだけ怖かった。夏衣が簡単に刑事に連れていかれたみたいに、この生活は呆気なく簡単に壊されて長く続かないのではないかと思うと、一禾はそれに怯えている自分がいることを、そこではじめて自覚したような気がしていた。そうして多分、それが自分達が寄せ集めの証拠なのだろうと思った。本物ならきっと、こんなことですぐに壊れることはないだろうから。
「あれ、そういやナツさんおらんの?珍しいな。どっか出掛けたん?」
一禾に解放されて、ようやくキッチンに辿り着いた紅夜が、京義の隣に立ってガラスのコップにりんごジュースを注ぎながら、ふと何でもないようにそう呟いた。紅夜にとっては何でもないことに違いなかった。一禾はそれが自分への問いかけなのだと分かっていたけれど、それでもまだ、それにどんな風に答えたら良いのか分からないでいた。時期にここにはさっきの刑事か、それとも別が刑事やって来るに決まっていた。だから隠しても無駄なことだと、分かっていたのに。
「京義、お前、父親がいんのか」
ぐっと奥歯を一禾が噛んだのと同時に、後ろからそう声がして、一禾は振り返らなくてもそれが染の声なのだと分かったけれど、振り返ってその姿を確認せずにはいられなかった。こういう時、染が以外と物応じしないことが、助かっているのかどうなのか、一禾は判別がつかない。
「・・・は、なんで」
「お前、捜索願い出されてんぞ。家出してきたのか」
京義の赤い目がふっと染から反れて、それから一禾に向かって止まった。その目が一禾に説明を促していることは、嫌でも分かった。
「京義、落ち着いて聞いてね。さっき警察の人が来て、ゆ、誘拐だって言って、ナツを連れて行っちゃったの」
「・・・は?」
京義の口から小さく漏れた音は、それがここにいる誰もが、疑問符だと分かる音だった。京義は何を知っていて、何を知らないでいるのか、一禾にも染にも、勿論その他の誰も、その時はまだ分からなかった。
「京義、京義はどうしてここに来ることになったの?」
「・・・」
「親はいないって言ってたけど、嘘だったの?ちゃんと話はしてこなかったの?」
「・・・親はいない、あんな奴、親でもなんでもない」
小さく、酷く小さく京義はそう呟いて、それは隣にいる紅夜にしか聞こえないほどだった。冷房の利いている部屋にいるはずだったのに、まるで真夏の炎天下の下、日向にずっと立っていなければいけないみたいに、どこもかしこも熱くて熱くて堪らないと思った。
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