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檻から出すな肉食を Ⅵ

「なんだって?それは、どういうことですか」 焦ったような相島の声が聞こえてきて、橋場はハンドルを握る手に力を込めた。もしかしたら自分の杞憂は、本当はそんなことあっては欲しくないけれど、現実になってしまっているのかもしれない。ルームミラーでもう一度後部座席の夏衣を確認すると、夏衣は背もたれに優雅にもたれて足を組んでいた。さっきまで確かに俯いて、こめかみから血を流していたはずだったのに。 「・・・どうしたんですか、相島さん」 「分からん、ただ、この男は容疑者ではないと」 「えっ、そんなはずは」 「今すぐ、拘束を解くように、と」 相島の手の中には、通話が終了した携帯電話が握られている。本部長はひどく焦った声で、ともすれば怯えたような声でそう言うと、急いで電話を切ってしまった。まるでこちらの意見など聞く気もないように。相島は手の中の携帯電話からゆっくりと隣に座っている夏衣に視線を移した。 「お前、一体・・・」 「バレちゃったからここで終わりか」 「なんだ・・・?」 言いながら笑って、夏衣は手を顔の近くでひらひらと振った。その時、相島ははっとして夏衣の手首を見やった。確かにそこを拘束していたはずの手錠はいつの間にか消えていた。 「お前、手錠、を」 「あぁ、これ、お返ししますね」 ぽんと夏衣が軽く投げた手錠が、膝の上を滑って止まる。確かにそれで夏衣の手首を拘束していたはずだった。相島がそれを持ち上げると、確かに人間の体温が少し移ったような、生暖かい感触があったから間違いはなかった。ひゅっと喉の奥が閉まって、空気の通り道が狭くなった音がする。 「こういうの、得意なんですよ、俺たち。小さい頃から訓練受けているので」 「・・・訓練?」 「そう、誘拐されたり拷問受けたりした時に、ちゃんと自分で逃げられるように」 「は・・・?」 「あの時は無駄な訓練だなぁって思っていたけど、こういう時にも役立つんだ。ちゃんと真面目にやってて良かった、かな」 生暖かい手錠を手に持って、相島は混乱しながら考えた。この不可解の正体を、どうにか掴むことができるかもしれないと、その時はまだ思っていた。 「相島さん、どうしますか、車、止めますか」 「・・・と、止めるしかない」 橋場の声も震えていた。これ以上夏衣と一緒にいるのは危険だと、身体中の細胞が中枢に訴えかけているのが分かった。きっと橋場もそうなのだろう、事件の解決や犯人の逮捕など、最早どうでも良かった。橋場が短くそれに返事をして、ほどなくして車は道路の脇に止まった。 「・・・良いんですか」 もう自分を拘束するものも、何もないと分かっているはずなのに、夏衣は足を組んだ格好のまま、しばらく後部座席から動かなかった。そうしてこちらを挑発するように、少しだけ笑いながらそう言った。そういえばずっとおかしかった、おかしいと思っていた。逮捕されても連行されても、夏衣はその表情を変えなかったし、飄々としたこちら小馬鹿にしたような態度も一貫していた。思えば、それはずっと夏衣の背中に張り付いたままの違和感だった。そんなこと普通ならあるはずがなかったから。 「・・・良いも何もない、上の指示だ」 「なら遠慮なく、帰らせてもらいますよ。結構、楽しいドライブでした」 言いながら夏衣はにっこり笑って、扉に手をかけた。 「待て!」 夏衣が車の扉に手をかけた時、それが最後だと思って相島は叫ぶように呼び止めた。夏衣は思ったよりあっさり動きを止めて、ふっと相島の方を振り返った。まずい気がした、それを見ながら、橋場はそれ以上踏み込んではいけないことを、恐らく本能的に悟っていた。 「相島さん、やめましょう」 「なんですか」 「お前は一体、何なんだ」 絞り出すように相島がそう言って、それに夏衣はくいっと口角をただ引き上げただけだった。 「安心してくださいよ、僕たちは一般人には手を出しませんから」 そうして夏衣は今度こそ、扉を開けて車を降りていった。橋場はしばらく手が震えて、車をその場からすぐに動かした方がいいことは理解していたけれど、次から次へと出てくる汗で手が滑って、ハンドルを上手く握ることができなかった。夏衣はもう車内にはいなかったけれど、まるでまだ夏衣がその蛇みたいな目で、後部座席から自分のことを見ている気がして、汗が止まらなかった。 「・・・あ、相島さん」 「忘れろ、もう全部、忘れた方がいい」 相島は後部座席で項垂れたまま、ぴくりとも動かなかった。夏衣の目は、あの目は、確かに狩りをする側の人間の目だった。そんな人間を手錠ひとつで捕まえることなど、はじめからできなかったのだ。檻がいる、きっとあの猛獣を捕らえるのには、こんな鉄のわっかではなくてもっと強固で頑丈な、檻のようなものが必要だった。確かに昔、同じ目をした人間を見たことがある、見たことがあったような気がした。 「一般人って、なんで、しょうか」 「・・・さぁな」 まだ手が震えている。橋場はもう一度ハンドルを握った。汗で滑るが、少し動悸も落ち着いてきて、マシになってきた。一刻もはやくここから、車を動かすことが先決だということは、橋場も相島もどちらも良く分かっていた。するととんとんと窓ガラスを叩く音が不意にして、橋場は体がびくりと震えてひきつるのを感じながら、音のしたほうに目を向けた。 「・・・あれ、海原?」 そこには同じ課の刑事である海原が立っていた。偶然近くを通りかかったのか、非番なのか仕事中なのか分からなかったけれど、大体仕事はふたり一組で組まされることが多かったから、海原がひとりでいるということは、非番なのかもしれないと考えながら、橋場は窓ガラスを下げた。 「どうした、海原。偶然だな」 「・・・ーーー」 その目をいつか、見たことがあると思った。いつかどこかで。

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