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檻から出すな肉食を Ⅶ
「海原」
「あ、夏衣様」
つい今さっき気がついたみたいな雰囲気で、その目に生気を戻した海原が、掴んでいた橋場のジャケットを離したのが見えた。それから車から少し離れた位置に立っていた夏衣は溜め息を吐きながら、一度は離れたはずの車に近寄ってきた。
「駄目じゃない、そんなに顔の形が変わるまで殴ったら」
「すいません、でもこいつら夏衣様を拘束したんですよ、当然の報いです」
「俺たちは一般人には手を出さないの、可哀想に」
「えー」
悪戯が見つかった子どもみたいにむくれる海原は、ポケットからハンカチを取り出すと、それで血で汚れた右手の拳を雑に拭いた。夏衣は橋場が開けた運転席側の窓から首を突っ込んで、後部座席にいる相島の様子を見やって一応確認した。急なことで声も出なかったのか、相島はそこで座ったまま白目を剥いて失神していた。刑事ならば凄惨な現場は幾らでも見ているはずなのに、と思ったけれど、相手が海原だったことも影響しているのか、それは相島にとって予期せぬ出来事だったのだろう。
「もう、後ろの人もびっくりして伸びちゃってるじゃん」
「はぁ、そっちの奴の方を先に殴れば良かったな、夏衣様に手を出しやがって」
「大体、同僚なんでしょ」
「良いんですよもう、どうせこいつらクビになるだろうし、俺には夏衣様がいるから」
キラキラと目を輝かせながら、海原はそう言って、夏衣はそれに首を竦めた。どうにかしようなんて、勿論車を降りるまで微塵も思っていなかったけれど、降りるまでに悠長にしていたから、そういう意味では自分も少し悪かったのかもしれない。それにしても一番血の気の多い、海原が現場の近くにいたことは、ふたりにとって運の悪いこととしか言えなかった。
「夏衣様」
不意に海原ではない声に呼ばれて、車に首を突っ込んでふたりの状態を確認していた夏衣は、車から首を出して、声のしたほうを振り返った。そこには急いで来た割りには、それを一切感じさせないような、今日も小綺麗なスーツを着た小牧が立っていた。
「牧」
「おい、牧、遅いぞ」
小牧よりも海原の方が幾分か先輩なので、海原のそれに小牧は眉間にシワを寄せながら、一応頭を下げた。
「申し訳ありません。夏衣様、お怪我をされたとか」
「怪我?あぁ、頭の。大丈夫だよ、もう血も止まってるし、ちょっとかすっただけ」
そういえば相島に頭を押さえつけられた時、当たりどころが悪くて、右の耳の上を切ってしまったようだったが、今はもう血も乾いていたし、そんなに深い傷ではなかったことは、夏衣はその患部を見ることはできなかったけれど、感覚で良く分かっていた。
「いけません、水月 様のところに行きましょう」
「大袈裟だよ、こんなかすり傷で水月くんを呼び出してたら怒られちゃうよ」
自棄に真剣な顔をして小牧が言うのに、夏衣はできるだけオーバーリアクションで大丈夫なのだと伝えたつもりだったけれど、胸ポケットから白いハンカチを取り出して、夏衣に差し出した牧は、全然納得のいっていなさそうな、怪訝な顔をするだけだった。水月というのは、月家の次男であり、夏衣はしばらく会っていなかったが、どうやら今は本家を離れて東京の病院にいるらしい。
「夏衣様!それなら俺が、俺が舐めて血を止めます!」
「だからもう止まってるんだってば」
嬉しそうに夏衣の周りをちょろちょろしながら、きらきらの目でこちらを見てくる海原を、片手でいなしながら、夏衣は小牧のほうに向かって歩き出した。
「夏衣様、本当によろしいんですか」
「いいよ、心配性だなぁ」
「俺も!俺もついていきます!」
「水月様には報告しておきますので、何かありましたら絶対に受診をされてください」
「あーはいはい」
白鳥専用の黒塗りの国産車に乗り込みながら、夏衣はしつこく念押ししてくる小牧の言葉に、適当にそう返事をした。海原も当然みたいに乗り込んできて、小牧はそれに少しだけ嫌な顔をしたけれど、海原は夏衣しか見ていないのでそのことに気づくはずもなかった。
「ホテルに戻られますか」
「あー、うん、そうしよっかな」
「俺も行きます、夏衣様」
「海原は来なくていいよ、それより仕事中じゃないの」
「いいんです、市民の安全よりも夏衣様の安全が第一なので」
「はは、警察官失格だなぁ」
海原とどうでもいい話をしている間に、車は音もなくゆっくりと発進した。
「それより夏衣様、やっぱりあのホテルで護衛もつけずに暮らしておられるのは危険すぎると思います!俺も住みます!」
「海原は住まなくていいよ、別にいいんだよ、ほらそれに出掛ける時は大抵牧も一緒だしさ」
「けど、今日みたいな急なことに対応するために、俺も住んでいた方がいいと思います!」
「だからいいって、それに俺はホテルでは白鳥じゃないんだ、ただのオーナーであの子達の保護者なんだ」
そうやって静かに呟く夏衣のことを、ルームミラーでちらりと見ながら、小牧は黙っていた。確かに海原の言うように、本来ならば本家の人間が、護衛もつけずにひとりでうろうろしていることはあり得ない。今回は警察だったけれど、白鳥を知っている人間が夏衣を狙わない確証などないのだ。本家の人間は絶対に、ひとりで外出などしない。白鳥は表には出ないけれども、その莫大な権力を振るって生きてきた経過から、決して敵が少ないとは言えなかった。ここが本家から離れた場所であったとしても、そんなことは絶対に許されないことだった。それなのにどうして夏衣が、ひとりで自由を許されているのか、それは小牧の知るところではなかった。
「あ、そうだ、牧」
「なんですか」
「車、ホテルじゃなくて別のところに回してもらってもいいかな」
「構いませんが、今日ははやくお休みになったほうがよろしいかと」
小牧が小さい声で夏衣に釘を刺すのに、夏衣は首を竦めて分かったような、分かっていないようなリアクションをするだけだった。
「何かご用が?」
「うん、迎えに行かなくちゃ」
夏衣はそうやって、少しだけ嬉しそうに呟いたのだった。
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