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許されざる彼のために
一本の電話からそれははじまった。
「小牧、出られる?」
小牧はいつものように、白鳥の仕事がない間、一般人と自分の境目を埋めるみたいに、弁護士事務所の事務員として、詰まらない仕事をしていた。その事務所は小さくて、融通が利いたから、急な夏衣の呼び出しにいつも応じることが出来たし、仕事が詰まらないこと以外は特段、文句はないはずだった。その日、急に上司である白橋 に声をかけられて、小牧は席を立った。白橋の目は、いつものように凪いでいたけれど、夏衣絡みのことであることは、その顔を見ただけで理解できた。
「出られます、なんですか、買い物ですか?」
買い物にしては変な時間帯だったし、自分に直接ではなく、白橋を挟んでいることは気になったが、小牧は一応白橋にそう聞いてみた。夏衣は運転があまり上手ではなかったので、小牧は夏衣が外出する時は大抵運転手を勤めていた。そもそも、事故に巻き込まれる可能性があるので、本家の人間は相当な理由がない限り、自分で車を運転することは禁じられていた。夏衣の場合、それに加えて本家からの厳しい監視があり、ホテルの外に出掛ける時は、大抵誰かが側にいることが原則だった。何度もそう伝えているはずなのに、夏衣はそれでも、時々誰にも告げずにひとりでふらりと外に出ていってしまうこともあったが。
「違う、どうも夏衣様がホテルから連れ出されてしまったらしい、警察が絡んでる」
「は?どうしてそんなことに」
「それは調べとくよ。とにかく迎えに行ってほしい」
「分かりました」
「怪我でもしてるといけないから、一番近くにいる奴にとにかく様子見させて」
ひゅっと喉の奥が狭まった気がした。夏衣は怪我をしているかもしれない状況なのか、それにしては白橋は落ち着いているなと思ったけれど、小牧はそれを口には出せなかった。そうして自分の携帯電話を開いて、白鳥の他の使用人のGPSを確認した。確かに夏衣のそれは、ホテルから随分遠いところを動いている。この速度は車だろうと考えながら、地図を拡大する。
「一番近いのは、海原さん、ですね」
「あはは、運が悪いなぁ。海原くんかぁ」
「どうしますか?一般人でも手を出しますよ、あの人は」
「まぁいいよ、電話して。夏衣様の無事をとにかく確認して。俺は本家に連絡しておくから」
ひらひらと手を振って、白橋は部屋を出ていった。その背中を見送った後、小牧は椅子の背もたれにかかっていたジャケットを羽織ると、右手だけで海原の携帯電話の番号を探して、電話を掛けながら事務所を出ていった。事務所には白橋みたいに白鳥の息がかかっている人間もいれば、全く普通の関係ない人間もいたけれど、誰も急に出ていく小牧のことを、呼び止めたりしなかった。きっと白橋が仕事を頼んだとでも思っているのだろう。本当に都合が良かった、何をするのでも。
『なんだよ、牧』
「あ、海原さん、お疲れ様です」
『なに、今仕事中だから』
「すみません」
海原はすぐに電話に出たが、酷く不機嫌そうな声をしていた。海原は大体いつもこういう感じなので、小牧はそれが気になっていたが、その内に慣れてしまった。話ながらエレベーターで1階まで降りて、白鳥専用車の車のキーのボタンを押した。ライトがぱっと点滅するのが見えた。
「夏衣様のことで海原さんに頼みたいことがあるんですが」
『夏衣様の?なに』
電話の向こうで海原の声が上擦って、小牧は少しだけうんざりした。夏衣と昔、海原の話をしていた時に、夏衣は海原のことを「目の魔法にかかりやすいタイプ」と言っていた。海原のその崇拝心は確かに、そう呼ばれても良かったかもしれない。白鳥の美しい桃色の光彩には魔力があって、それこそが白鳥が多くの人間を洗脳し、導くことができた要因だと、そんな存在そのものが都市伝説みたいな白鳥の中でも、更にとても現代の科学では説明できない、信じがたい話を聞いたことがあったけれど、それを本家の人間である夏衣も、嘘みたいに信じているのかと思ったら少し驚いたことを覚えている。
「今、夏衣様がホテルから警察に連れて出られてるみたいで」
『は?なんで』
「分かりません、海原さんの方がご存じかと思いましたけど」
『知らねぇ、誰だ』
声色がさっきとは変わって、怒っているなと思ったけれど、小牧にはそれを宥める術はなかったので、聞かなかったことにするしかなかった。
「海原さんがおられる場所が、今の夏衣様の位置に近いので、とりあえず向かってもらってもいいですか」
『分かった、すぐ行く』
「俺もすぐに追いかけます。相手は一般人なのでくれぐれも手を・・・ーーー」
海原との通話は、そこで一方的に切れてしまった。小牧は一瞬かけ直そうかと思ったけれど、海原にそれを念押ししたところで、意味がないことは分かっていたので、かけ直すのは止めにした。小牧は車に乗り込んで、とりあえず夏衣の元に向かうため、それを発進させた。
(こんなことがあったら、多分、夏衣様の護衛は強化されるし、今よりもっと自由にできなくなるんだろうな)
今の夏衣がやっているみたいに、本家の人間が、本家から離れて生活していること自体、白鳥の長い歴史の中では有り得ない話だったが、なぜか夏衣だけは特例でそれが許されていた。理由は小牧の知るところではなかったし、そんなことを知ったところで何の役にも立たないことは分かっていたから、別に小牧にとっては理由などどうでもいいことだった。車が曲がる。夏衣のGPSを調べると、少し前に止まっていたから、もう車から降りてしまった後だったのかもしれない。
(・・・いた)
パトカーの側に海原が立っているのが見えた。夏衣の姿はすぐには見つからなかったが、きっと側にいるのか、まだ車の中にいるのだろうと思った。小牧は道路の脇に車を止めて、そこから出ようとした。その時、海原が振りかぶるのが見えた。相変わらず無駄な動きが多い人だなと、それを見ながら小牧は小さく溜め息を吐いた。白鳥の人間ならば、幾らでも揉み消すことができるけれど、白鳥と関係のない普通の人間に、それを簡単には適用できない。適用できないから、この世界は世界の形を未だに留めているのだろうと思う。
(余計な仕事ばっかり増やして)
近くにいたらしい夏衣が、海原に駆け寄っていくのが見えて、小牧も車を降りた。どうやら夏衣は無事なようでほっとした。それだけでも分かって良かった。そう思ったけれど、夏衣の右のこめかみ辺りから、出血しているのが見えて、小牧はまた心臓が煩く鳴ったのが分かった。
(夏衣様、俺だって)
(俺だって、あなたの魔法の前では、いつだって無力なんですよ)
夏衣が魔法なんて呼ぶには可愛すぎるから、きっとこれは呪いなんだと思う、とその後寂しそうに言っていたことを、小牧は良く覚えている。その憂いを帯びた切れ長の目元のことも、全部。
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