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あの欲しかった愛のこと Ⅱ

談話室は静かだった。叫ぶようにそう言った京義の肩は上下していて、ただそれだけが動いているようにも見えた。普段年齢の割りに落ち着きすぎているというか、余り他人に関心のない京義が、そんな風に感情を剥き出しにして怒ることも、声を荒げることも、ましてや誰かを殴ってしまうなんてことが、きっと誰も信じられなかったし、その真実の前で、黙っていることしかできなかった。けれど、染だけはその京義に殴られて、尻餅を吐いた格好で頬を押さえて京義を見ているその男、その男には見覚えがあった。そして京義がその名前を呼んだことで、ひとつの小さな点だったそれが線を描いて結び付いていく。 「・・・鏡利、さん?」 確かにそれは、あのスタジオの中で、染に向かって小首を傾げてにこやかに笑いかけていた鏡利だった。確かに滝沢は、「鏡利が度々日本に帰ってきているのは、誰かを探しているからだ」と言っていたけれど、それがどうして京義のことだと分かるのだろう、分かったのだろう。しかし、染の小さな呟きには、その時誰も反応しなかった。鏡利はじんわりと熱を帯びる頬を押さえたまま、怒りを剥き出しにして、肩を上下させている京義のことを、泣きそうにも、辛そうにも見える目でただ見ていた。 「・・・京義」 「お前は、そうだよ、いつだって、俺から」 「京義、待って」 「俺から、大事なもの、いつも奪ってく、全部・・・ーーー」 絞り出すように京義はそう言って、鏡利の目を正面から真っ直ぐ見た。痛いくらいの、まるで相手を突き刺す、視線だと思った。 「今度は、ここかよ」 そうして京義は談話室の扉を開けて、出ていこうとした。その一瞬、一禾は思わず京義の腕を掴んだけれど、京義は一瞬振り返って、一禾の手を振り払った。 「離せよ」 「京義!」 一禾はその背中にそう叫ぶように呼び掛けたけれど多分、京義が足を止めることを望んでいたわけではなかった。そんなことで京義の足を止めることができるとは、思っていなかった。しばらくしてばたんと、エントランスの扉が閉じる音がして、また辺りは静かになった。 「・・・追いかけましょうか」 今まで黙っていた警察の男が、おそらく鏡利に向けて、そう短く言ったけれど、鏡利はただ頬を押さえたまま首を振った。 「・・・これ以上は、ご迷惑をおかけできません、家族の問題なので」 「分かりました、では、また何かありましたらご相談ください」 鏡利が自棄にはっきりと言うのに、男もそれ以上首を突っ込むこともせずに、あっさりと踵を返すと扉の近くに立っていた一禾に向かって、出ていく前に一礼をした。一禾も訳も分からず、とりあえずほとんど反射で男のそれに合わせて一礼をする。 「失礼致しました」 そうして男はさっさと出ていってしまった。来た時の強引さと、まるで別物だなと思ったけれど、一禾にそれを指摘している余裕はなかった。 「鏡利さん、大丈夫ですか」 ソファーに座っている鏡利に向かって、染は水で濡らしたタオルを差し出していた。こうして改めてそういう目線で見ると、確かに京義の顔の造形と、鏡利のそれは親子と言われても遜色ないくらいには、似ているような気がした。雰囲気は鏡利の方がずっと柔らかいし、勿論年齢も随分違うから、ただ似ているというだけではなかったけれど。スタジオの中で見るよりも、ずっと弱々しく疲れているように見える鏡利は、そんなはずはないだろうけれど、その時よりも遥かに小さく見えた。 「・・・ごめん、染くん」 染にとっては、鏡利が京義の父親だったことも、急に警察と共にホテルにやって来たことも、勿論予想外だったけれど、鏡利の方は染がそこにいることに、そんなに驚いている風でもなく、どちらか言えばその事は知っていて、落ち着いているようにも見えた。 「いえ・・・」 「ねぇ、ちょっとだけ、あの子のこと聞いてもいいかな」 「良いですよ、勿論。あ、でも、俺分かること少ないかも。紅夜、紅夜のほうが分かるかも」 キッチンの中から動けなかった紅夜は、染がそう呼ぶのに、そろそろとソファーに近づいていった。鏡利の視線が自分を捉えているのが分かって、その時どんな顔をしたらいいのか、紅夜には分からなかった。京義のことも、その父親だという紅夜にとっては見知らぬ男のことも。 「紅夜は京義と同い年で、京義と一緒に学校に行ってたから。俺よりずっと京義には詳しい、な?」 「・・・何やねん・・・染さん、やめてや」 京義の味方をしたかったけれど、どうすればいいのか分からなかった。どうすれば京義の味方をすることになるのか、紅夜には分からなかった。ソファーに座っているその人は、唇の端は血が滲んでいたけれど、紅夜の方を見るとにこっと笑って、紅夜はその柔和な笑みに自分はどう振る舞ったらいいのか分からなかった。ちらりとダイニングテーブルに座って何も言わない一禾に助けを求めるみたいに視線をやったけれど、一禾は俯いていてこちらのことは見ていなかったので、無意味だということを悟るしかなかった。 「紅夜くん、京義のこと、聞かせてもらえる?」 「・・・ええですけど、俺からも聞いてもええですか」 「いいよ、なに?」 「なんで、京義はここで暮らしてるんですか、家族がおるのに」 「・・・ーーー」 鏡利は一度ゆっくり瞬きをしてから、紅夜の震える目を見て、それからそれを宥めるみたいににこっと笑った。一見すると鏡利は物腰の柔らかいいい人そうに見えたけれど、京義が、あの京義があんな風に激昂するのに、意味がないわけがなかった。だから勿論、そこで穏やかに微笑む鏡利のことを、紅夜は染みたいに簡単に信じることなんてできなかった。 「そうだね、僕の方から、話すべきだな」 「皆、京義と一緒にいてくれてありがとう、あの子が元気だっただけで、僕は本当に、それだけでも分かって良かったんだ」 そう言うと、鏡利は短く息を吸い込んだ。 「僕が悪かったんだよ、全部」

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