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あの欲しかった愛のこと Ⅲ
空は遠くの方から、色が濃くなっていって、ゆっくりと日が暮れているのが分かった。京義はふらふらと繁華街を俯いて歩きながら、耳の側で煩く鳴り響いている自分の呼吸音が早く鎮まればいいのに、と思っていた。いつかこうなることは分かっていたような気もするけれど、それにしても平穏な時間が長くて、自分が帰る場所があることを忘れてしまっていた。
(あいつはどこにいるんだろう)
その現場を見ていたらしい一禾は『夏衣は警察に連れていかれた』と言ったけれど、夏衣が大人しく警察に連行されたのも、京義にはとても信じられなかったし、何となく歪な匂いを嗅ぎとっていた。それが一体何の匂いなのか、京義には言葉にすることはできなかったけれど、そこに夏衣がいないことは、何となく根拠はないけれど確信的に理解していたのだと思う。けれど他にどこにいるのか、何か思い当たる場所があったわけではないし、夏衣を見つけて一体何をしようとしているのか、自分でも良く分からなかったけれど、まさかホテルで鏡利と膝を突き合わせているわけにもいかなかった。けれどこうなった以上、最早ホテルにも居続けることはできないのだろうということだけは、何となく京義にも分かっていた。
「・・・クソ・・・」
いつかこんな日が来るのは分かっていたような気もするし、想定していなかったと言えば、確かにそのような気もした。見つかるのならばもっと早く見つかるべきだったし、鏡利が警察に自分を探させているとは思っていなかったけれど、そうであったのだとしたら、もっと早く見つからなければおかしかった。
(こんなこと、契約違反だろ・・・)
それを呟く相手も、京義にはその時、残念ながらいなかった。誰のことを恨んだら良いのか分からなかったけれど、握った拳は今までに感じたことがないくらい熱くて、それで確かに人の肉を殴った感触だけがずっとこびりついていて気持ち悪いほどだった。
(俺の指はピアノを弾く指なのに)
『だから人を殴っちゃだめだよ』と言われたのがいつだったのか分からない、もう思い出せないくらい昔の話のような気もするし、至極最近の話だったような気もする。
その昔、京義が住んでいたのは東京の一等地であり、庭付きの一軒家は傍目から見れば裕福な暮らしだったのかもしれない。そこには京義の母親と兄とそれから何人かの使用人がいて、それが京義にとっては普通の生活だった。それ以外の生活を知らなかったのだから仕様がない。父は仕事が忙しくて、どうやら海外にいるらしかったけれど、たまにしか帰ってこないのでどこにいても京義にとっては多分同じだった。父の鏡利がいないことについては、昔からそんなに深く考えたことはなくて、ただ友達の家と少し違うなと思うくらいで、別段自分の生活に支障のないことだったから、そんなに重要なことではなかった。
「ただいま」
いつ家に帰っても、家の電気はついていたけれど、出迎えてくれる人がいなくなったのは、京義が中学生になったくらいの頃からだった。その頃になると、京義はいつも無言の部屋のなかにそう投げ掛けるだけ投げ掛けると、鞄をリビングに置いて、一番奥の部屋まで直行することが決まりみたいになっていた。一番奥の日当たりのいい部屋の中央には、豪華なベッドが置いてあって、そこに横になっている人は、京義の気配を感じると、いつも体を起こして、京義に向かって微笑んでくれた。
「おかえり、京義」
「ただいま、エマ」
それが京義の記憶の中の、母親の姿だった。
母親のエマは、多分、元々体が強いほうではなかったけれど、京義が中学生になる頃には、持病の悪化が顕著になり、家の中のベッドルームから出ることができなくなってしまっていた。だからそれまで彼女がやってきた仕事を、使用人という形で別の人間がやらなければいけなくなってしまった。京義は彼女が一体何の病気なのかは知らなかったけれど、日に日に生気を失っていく母親を見ながら、そうは思いたくなかったけれど、きっと遠からずこの人は死んでしまうのだろうと感じていた。本当は母親の側にいて、できるだけ長く生きている母親の側にいたかったけれど、それでも気丈に振る舞おうとする母親が、自分の母親としての役割を全うしたいと思っていることを、京義は良く分かっていたので、物分かりのいい息子ならば、きっとこうするだろうと思いながら、毎日形だけでも学校に通うことは、忘れていなかった。そうして学校が終わって走って帰ってきている癖に、それをエマには知られたくなかったから、息を必死に整えながら、もしかしたら母親はもう息をしていないかもしれないと思いながら、その部屋の、一番奥の扉に手をかけていたのだった、毎日。
「エマ、今日は調子良さそうだな、顔色がいい」
「そんなお医者様みたいなこと言わないで」
「ごめん」
「京義、こっちに来て。学校であったこと話してよ」
エマはベッドに座ったまま膝を立てて、京義に向かっていつもにっこり笑って、まるで十代の少女みたいな無邪気さでそう言った。死期が近い人間とは思えなかったけれど、彼女が気丈に振る舞える間は、それにできるだけ付き合うべきなのが、息子としての役割なのだと京義は思っていたから、それに首を竦めるようにして、ベッドサイドの椅子に座ると京義は有りもしない学校であった話を、毎日考えなければいけなかった。彼女は京義が学校で友達と心穏やかに過ごせていることを望んでいたし、聞きたいのはその話であることは明白だったので、京義はそうするしかなかった。でもそんな風に決して平穏とは言えなかったけれど、死期の足音に耳を塞いで生きていることが、まるでごっこ遊びみたいだったとしても、京義にとっては唯一の優しい記憶だったし、そうやって過ごした日々のことを一度も、呪ったことなどないのだ。
「ねぇ、京義。ピアノ弾いてよ」
「いいよ、何にする?」
「ショパンがいいな」
ベッドサイドにはアップライトピアノが置いてあって、ほとんど京義しか触らないので、京義がピアノを開く時にはいつも独特のピアノの匂いがした。エマは元々、ピアニストだったようだが、京義には彼女がステージの上でピアノを弾いている記憶はなかった。物心ついたときから、彼女は既に病に犯されていたから、きっとピアニストとしての寿命もそう長くはなかったのだろう。はじめにベッドルームにアップライトピアノを置いたのも、きっと彼女が元気な時はいつでもピアノが弾けるためのものだったようだが、彼女がここで過ごすようになってから、残念ながらピアノの椅子に座るほど体調が回復することはなかった。
「京義のピアノ、好きだなぁ。音が優しくてきれい」
「エマが教えてくれたんだよ、全部」
「私が教えたのは触りだけ。才能があるよ、京義には」
彼女が教えてくれたことの幾つかの中にピアノがあって、京義は彼女の思い出を自分の中で風化させないためにも、未だにピアノを弾いている。ピアノを弾いているとエマと過ごした日々のことを簡単に思い出せたし、それが色褪せないでいるような気がして、それを止めることができないでいた。
「いつかエマと一緒にステージに立てる?」
「あはは、いいなぁ、それ」
「・・・エマ?」
ピアノの鍵盤を撫でていた手を止めて、京義はふっとベッドに座ったままのエマを見やった。そこでエマはいつものように笑っていたけれど、京義にはそれが酷くか細く見えて、胸がぎゅっと締め付けられるような思いがした。
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