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あの欲しかった愛のこと Ⅳ

「オイ、京義」 部屋を出たところで、待ち構えたように腕を組んで仁王立ちしていたのは、兄の三森(ミモリ)だった。 「ミリ、なんだよ」 「調子、どうなんだよ」 「今日は良さそうだったけど、気になるなら自分で見に行けよ」 「行けるかよ、お前ってほんと人間らしい心がないよな。死にそうな母親を目の前にして」 三森は溜め息をついてそう言うと、くるりと背を向けて廊下を歩き出した。京義はその後ろ姿を見ながら、それもそうだと思ったし、三森には決して同意できないとも思った。家の中には京義とエマの他に、家族でいえば兄しかいなかったけれど、京義は兄と建設的な会話をした記憶は少しもなかった。兄はエマに良く似た柔和な容姿の持ち主だったが、自信家であり、特に京義には上から物を言ってくることも多くて、それが京義の頭痛の種にもなったけれど、決断力や判断力の観点から言えば、この年齢で最早親には頼ることができなかった京義にしてみれば、助かっている部分も多かった。 「エマも時には顔が見たいって言ってたぞ」 「俺は駄目だ、痩せ細ったエマの姿なんか見たら、俺まで病気になっちまう」 「・・・」 「お前みたいに図太くできてないんだ、俺は繊細なんだ、元気だからそう伝えとけ」 「・・・分かったよ」 エマの病状が悪化してベッドルームに籠ることになってからというものの、三森はそれを受け入れることが難しく、口では「もうすぐ死ぬ」などと呟きながら、決してその部屋に入ろうとはしなかった。多分、エマもそのことを分かっていたようで、時々京義に「ミリちゃん元気にしてる?」と聞くものの、会いに来ない三森に言及することは少なかった。三森は嘘でも何でもなく、ただ青い顔をして震えてそう深刻そうに言うので、京義もそれ以上三森に求めることができなかった。確かに日に日に弱っていく母親を見るのは精神的にも苦しかったが、本当に死期が近いのだとしたら、それまでの時間をどう有意義に過ごすのか考えることは、そんな風に罵られるほど人でなしの考えではないような気がしたが、三森が自分と同じ要領で母親であるエマを愛しているのだとしたら、京義にはやはりそれ以上、三森には何も言えないと思った。 「そういや、京義」 「・・・なに」 「ピアノ弾いてたの、お前か?」 廊下を歩いていた三森が、急に振り返ってそう京義に尋ねてきて、京義は少し嫌な予感がしたけれど、黙って首を縦に振った。 「やっぱり。相変わらず下手っくそだな」 「・・・」 「止めろよ、才能ないんだから。お前の演奏なら、俺の三歳の頃の方が上手いぜ」 「・・・ごめん」 口角を引き上げて、実に悪意の欠片もなく笑う三森に対して、京義は少しだけ俯いてそう言うしかなかった。本当なら、もっと言い返しても良かったかもしれないけれど、確かに三森の演奏は人の心を惹き付けるものだったし、その頃三森は数々の賞を総なめするには飽きたらず、最年少記録を樹立し続けていた。その天才と呼ばれた兄の眩しさの側で、京義もコンクールなどに出てみたことはあったけれど、勿論兄の記録の前にはそんなものは遠く及ばずに、一層兄の眩しさを痛感するだけに終わった。才能がないのなら、ピアノを止めても良かったけれど、エマが『京義のピアノが好き』と言うので、止めるにも止めることができなかった。 「もうエマの前で弾くなよ、お前のピアノ、寿命が縮むし、精神衛生に悪いから」 「・・・分かった」 三森の自信は裏付けの元に成り立っていて、京義はその前で俯くことしかできなかったし、三森が白と言えば、それが黒に見えても白と呼ぶしかなかった。こんな時、もしエマが側にいてくれたら、きっと自分の手を握って『京義のピアノが好きだから止めないで』と言ってくれるのだろうと思いながら、京義は言いたいことを全部言って、すっきりしたのか廊下の向こうに消えていく三森の背中を見ていた。三森に多少八つ当たり半分、そうやって罵られても京義が自分のことを諦めないでいられたのは、いつでもエマが自分のことを愛していてくれたからだと思っていた。いつでも手を握って、欲しい言葉をくれるからだと思っていた。 エマの容態は確かに日に日に悪くなっていたものの、時折元気そうな日もまだ少しはあって、京義はそれを見つける度に、自分を騙していると思ったけれど、『まだ大丈夫』と心のなかで呟いて、ひとりで自我を保っているつもりだった。しかし、京義が中学2年生の、それは季節が移り変わって、少しずつ辺りが寂しくなってきた頃合いだったから、きっと秋だったと思う。その日、京義がいつものように学校から帰ると、いつもその時間にはいないはずの使用人が、玄関で京義のことを出迎えた。 「お帰りなさい、京義くん」 「・・・坂下さん」 その時、家の中はしんと静まり返っていて誰の気配も感じられないほどだった。京義は坂下が何か言う前に、走って一番奥の日当たりのいい部屋まで行って、ノックもせずにその扉を開いた。するとそこには三森の背中があって、京義は乱れた息とともに何か飲み込んではいけないものを飲み込んだ。三森は京義が部屋に入ってきたことに気づいていただろうと思うけれど、ベッドサイドに立ったまま、振り返りもしなかった。京義がそろそろとベッドサイドに近づくと、いつもそこで眠っているエマの姿はなくなっていた。 「・・・エマは」 「病院に運ばれた。もう長くないらしい」 その時、エマのいなくなったベッドルームで、誰も眠っていないベッドを見ながら、三森は小さい声で京義のそれに自棄に冷静にそう答えた。 「三森くん、鏡利さんにお電話しようか」 はっとして振り返ると使用人だった坂下は、京義が開いたままにした扉のところに立って、まるで部屋には入ってはいけないと言われているみたいに、そこから一歩も動かず三森に向かってそう言った。 「鏡利には伝えないでください。アイツには戻ってきてほしくない」 「・・・でも、伝えた方がいいんじゃないか、そんなに状態が悪いなら・・・」 「馬鹿か、お前。エマが具合が悪いのは今にはじまったことじゃない・・・!それなのにアイツは俺たちのことを放置したまま金を稼ぐことだけに夢中になってる!」 「・・・でも」 三森が手を振り上げて、京義はそれがスローモーションのように見えた。握った拳が頬を叩いて、ふらついたけれど、元々ピアノしか弾いてこなかった三森の腕は、病気だった母親のエマと同じかそれよりもずっと細く、力なんてひとつもないように見えた。それなのにそれを振り回して、自分のことを守ろうと必死になっている、かつて天才と呼ばれたその繊細な兄の目には、もう現実なんて正しい形では映りようがなかった。京義はぶたれた頬なんて痛くはなかったけれど、それなんかより、兄の握った手のひらに食い込んだ爪の跡のほうがずっと痛々しく見えたけれど、頬を手で押さえてそれなりに不服は訴えたつもりだった。 「・・・ミリ、お前の手はピアノを弾く手なんだ」 「人なんか殴っちゃいけない、大事にしろ」 目に涙を溜める兄をどうやって慰めたらいいのか、京義には分からなかった。

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