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あの欲しかった愛のこと Ⅴ

自宅での療養が限界を向かえて、エマが病院に入院することになってから、エマの容態の悪化は顕著になったような気がした。京義はいつもそうしていたみたいに、学校から帰ると鞄だけを家に置いて、毎日病院に通った。変わったことがあったとしたら、三森も病室に来るようになったことくらいだった。流石に三森も母親と過ごせる時間がもう短いことを自覚しているのか、柔和な顔に黒々とした隈を刻んで、自身で宣言していたみたいにエマと会う時間が長ければ長いほど、自身の健康的な部分を削ぎ落としているみたいにも見えて、それは酷く痛々しかったけれど、京義だって傍目から見れば同じようなものだったかもしれない。 「エマ、調子、どうだ」 「・・・京義」 その日、先に病室にいるはずの三森はいなくて、エマはひとりでベッドに横たわっていた。京義が来たことに気づいても、最早体を起こすこともできずに、首を少し回すことができたくらいだった。京義はそのことに気付いていたけれど、気付かないふりをして、ベッドサイドに近寄っていって昨日と同じところに置いてある丸椅子に腰かけた。エマのできることはそうして日々、少しずつ少なくなっていたけれど、それでも生きてさえいてくれれば構わなかった、京義にとってみれば。 「ミリは?まだ来てないのか」 「ミリちゃんは今日は来られないって」 「・・・そっか」 残念そうにエマは呟いて、京義は少しだけ変だなと思った。朝学校に行く前に三森には声をかけたが、その時は病院に行くと確かに言っていたはずだった。その時、高校生になっていた三森は、空ろな目をして部屋に引きこもるようになってしまい、京義のように学校に行くことは出来なくなっていた。そうして努めていつも通りに京義が振る舞おうとすればするほど、それができない自分にジレンマを感じるみたいに、勝手に自分の首を絞めて苦しがるので、京義も三森の相手をするのに、その頃になると段々と嫌気が差していたのも事実だった。 「京義、もっと近くで顔を見せて」 エマが言うように、横たわっているエマの顔の近くに寄ると、エマは手を伸ばして京義の顔をぺたぺたと触るようにした。 (もう目が見えてないんだ) 細くて長い、ソリストだった母の自慢の指は、痩せて震えるようになってしまったけれど、京義はそんなことは知らないふりをして、エマの手をぎゅっと握った。もしこのまま母親が死んでしまっても、後悔したくはなかったし、エマの最後の記憶にいつなってもおかしくないように、努めていつもどおり振る舞っているつもりだったけれど、それが功を奏していたかどうかは分からない。 「早く家に帰りたいなぁ」 「そうだな」 「ここじゃ京義もミリちゃんもピアノを弾いてくれないもの、早く帰ってピアノが聞きたい」 彼女の腕が冷えないように、毛布の下にそれを丁寧に仕舞いながら、京義はそんな日はもう彼女に訪れはしないことを知っていたけれど、それを伝えることもできずにただ小さく瞬きをすることしかできなかった。病床の彼女を病魔が蝕めば蝕むほどに、京義もそれに侵食されるみたいに、彼女にしてやれることがもうないことを、嫌でも自覚することしかできなかった。 その日、病室を出ると、そこに三森が立っていて、いつかもこんな風に三森が待ち構えていたことがあったなと思ったけれど、その時はまだエマは家にいたし、死期の足音がこんなに近くで大きな音で聞こえることはなかったと京義は考えていた。三森は疲弊した様子を隠すこともできず、病気であるエマ以上に気丈に振る舞うこともできずに、いつ見ても余裕がないように見えたし、勿論そんな精神状態でピアノが弾けるわけもなく、天才は表舞台からはすっかり姿を消していた。 「ミリ、どうした。今来たのか」 「・・・鏡利に電話した」 三森は俯いたまま小さく呟いて、そうして肩を震わせた。 「・・・そうか」 「出ないよ、アイツ。最低だ、エマがこんな風になってるのに、帰っても来ない。自分にアイツと同じ血が流れているのだと思うと吐き気がする」 「ミリ、大丈夫だ。俺たちだけで、アイツの助けなんかいらない」 「・・・エマが会いたいって」 肩を震わせて三森は言って、小さく鼻を啜った。そう言えば、鏡利の話をエマは全くしなかったし、それ以前にふたりがふたりでいたところを、京義も三森も数えるほどしか見たことがなかったけれど、ふたりは夫婦だったし、どんな形でも愛情がそこになかったわけではなかったと思う。けれど京義は三森が声を震わせてそう言うまで、エマのほうがそんなことを言い出してくるとは思っていなかった。エマはエマで鏡利が戻ってこないことをもどかしく感じながらも多分、帰ってこられない現状を理解しているようだったし、そんなことを三森や京義に言ったところでどうにもならないことも、理解していると思っていから、言わないでいたのだろうと思っていた。けれどいよいよ、自分がこのまま良くならないでいることに気付いたのか、鏡利の名前を呟くようになったと思うと、心臓の辺りが冷えて京義は上手く息が吸えない気がした。 「・・・クソ、結局俺たちはアイツには勝てないのか、俺たちよりアイツのほうがいいのかよ」 「違う、ミリ。そういうことじゃない」 「そういうことだろうが!」 三森が振り絞るようにして叫んだ声が、病院の廊下に木霊して煩いほどだった。三森は俯いたままぼろぼろと涙を溢して、それが三森の足元に広がっていく様を京義は嫌でも見ていることしかできなかった。本当ならば、京義だって肩を抱いて欲しかった、いつだって手も震えていたし、大丈夫だなんてエマが臥せるようになってから、一度も思えたことがなかった。それでも病床の母と繊細すぎる兄の間で、まともなふりをして立っていなければいけなかった。京義がここでぽきんと折れてしまったら、助けてくれる人はこの船には誰もいなくなってしまうのだから。だから俯いて兄が涙を溢すのに、肩を抱いてやることしかできなかった。 「お前はいいよなぁ、鏡利に似てるから、エマにも可愛がられて」 「そんなことない」 「そんなことあるんだよ!俺の方が努力して、俺の方が才能があるのに!なんでお前ばっかり・・・」 錯乱して全然関係ない話をはじめる三森の肩を抱いて、それでも味方でいなければいけないのは辛かったけれど、三森の気持ちを一番に分かってやることができるのが、自分しかないことも京義には分かっていた。不安でどうにかなりそうなのは同じだったし、もしかしたら三森のほうが少しだけ、それが早かっただけなのかもしれないと、落ち着いて泣きじゃくる兄の背中を撫でながら、京義は考えていた。 「・・・どうしよう、エマが死んだら、どう、しよう・・・」 「大丈夫だよ、ミリ、俺たちふたりいれば」 そうやって自分達に目隠しをするみたいに呟いて、一時だけの安心を得ることが、決して悪ではないと思っていた。他にどうすればいいのか分からなかったし、京義はまだ子ども過ぎて、誰に頼ったらいいのか分からなかった。だから頼りなくて繊細でも兄が折れてしまわないように、ただ必死だった。鏡利のことを考えなかったわけではないし、鏡利に助けてもらえる未来がもしかしたらあったのかもしれないけれど、そこに誰にもいてほしくなかったのも真実だった。今更父親の顔をされたって、自分達に息子の顔ができないのも分かっていた。だから結局、そんなことは思案するだけで無意味だった。

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