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あの欲しかった愛のこと Ⅵ
「今夜が峠でしょう」
エマの意識が混濁しはじめて、会話ができなくなってしばらく経った後、いつものように学校から帰ってすぐに病院に駆けつけた京義に向かって、主治医は目を伏せてそう言った。恐れていたことが起こりそうなのに、京義はそれを聞いた時、自分が酷く冷静でいることに驚いていた。こんなことはエマが病床にふせってから、いつか来ることだと分かっていたからだったのかもしれない。病室の前の長椅子に、三森は座っていて、生気のない目をしてただ天井を眺めていた。ふたりでいれば十分だと思ったけれど、京義はこの兄とふたりになってしまうことも、それはそれで怖いことだと人知れず思っていた。
「ミリ」
「・・・おぉ、京義か。遅かったな、お前」
「エマは?」
「寝てるよ、もう目覚めないかもな」
口元を引き上げて、乾いた笑いを上げて三森は苦しそうにした。思ったより三森も冷静でいることに、少しだけ恐怖を感じながら、京義は病室の扉を開けた。いつものようにエマは病室の簡易ベッドの上に眠っていて、それなのに明日は来ないかもしれないなんて、酷い嘘だと思った。
「なぁ俺たち、エマにとっていい息子だったかなぁ」
「・・・ミリは天才だし、いっぱい賞も取っただろ、十分だったよ」
「はは、さんきゅー。凡人のお前に言われると元気出るわ」
いつものように軽口を叩きながら、三森はそこでちらりと側に立っている京義に目を向けた。最後の最後で三森がどうしてそんな話をしたのか、京義には分からなかった。
「送ってやろうぜ、ふたりで」
「・・・うん」
三森はそこでいつもみたいに泣いたり取り乱したりせずに、ふらっと立ち上がると、すたすたとエマの眠る病室に入っていって、そこでエマの手を握った。京義も三森の後についていって、ベッドサイドからもう元気だった頃の面影のない母親の姿を眺めていた。
「エマ、お前が元気だったらもっと良かったのにって思ったこともあったけど、お前が病気だったから、分かったこともあったよ、沢山。俺たちお前の息子で良かったよ」
「もう頑張らなくていい、疲れたら眠っていいんだ」
眠るエマに向かって、三森が小さくそう呟くのを京義は隣で聞きながら、何も言わずにただ目を伏せていた。長い時間三森はエマの手を握っていた。いつの間にか外が暗くなって、空気が冷たくなってきて、そろそろ夜を迎える気配が足元から忍び寄ってきても、三森は今日だけは自棄に強い目をしていて、エマの手を握ったまま離さなかった。すると、眠っていたエマの睫毛が震えて、すっとそれが開かれた。最後に見たエマの茶色の瞳のことを、京義は決して忘れないだろうと思った。
「来てくれたのね、鏡利さん」
もうしばらく話すこともままならなかった彼女は、微笑んで最後にそう言うと、三森の手の中からするりと抜けていって白い清潔なシーツの上に落ちていった。
それが彼女の最後の言葉だった。
勤務時間帯ではなかったけれど、三森と京義のことを病院まで迎えに来た坂下は、ふたりを車に乗せて家まで帰ってきていた。家からエマが病院に移って、もう何ヵ月も経っていたけれど、京義は家に帰った時に、酷くその中ががらんどうに感じて薄ら寒かった。病院に移ってから、一度も病状がよくならなかったので、家に帰るということは、エマにとっては叶わないのだなと京義は分かっていたけれど、それでもそれが叶わないまま、本当にエマは死んでしまったのだと理解するのには、京義にはもう少し時間が必要だった。もっと取り乱すかと思っていたが、思ったよりずっと三森は落ち着いていて、口数は少なかったけれど、エマがこの世にはもういないことを、京義が自身の尺度で理解しようとしているみたいに、三森も三森なりに受け止めているのだと思った。
「三森くん」
「・・・なに」
「鏡利さんから、電話だ」
リビングのソファーに踞ったまま動かない三森に向かって、坂下は携帯電話を差し出した。三森は今までの緩慢な動きが嘘だったみたいに、坂下の手から電話を引ったくると耳に当てた。状況は最悪だったけれど、京義にはそれを阻止することもできずに、見ていることしかできなかった。
『ミリくん、鏡利です。長い間電話できなくてごめんね』
「・・・エマは死んだよ」
『そうか・・・俺もすぐに戻るよ』
「戻ってこなくていい」
もっと怒鳴ってめちゃくちゃになるかもしれないと思っていたけれど、三森は虚ろな目をして、携帯電話をぎゅっと握っただけだった。
『戻るよ、辛い思いをさせてごめん』
「今更遅いんだよ、全部。エマは死んだんだ」
『・・・そうだね』
「何にも分かってない、お前は」
『・・・ごめんね、辛い思いを・・・ーーー』
「そうじゃねぇんだよ、エマだよ。お前に会いたいって言ってたのに、一度も!お前は一度も帰ってこなかった!」
『・・・』
「エマが最後に手を握ってて欲しかったのはお前だったのに!なんでお前はただの一度も帰ってこなかったんだよ!」
『・・・ごめん』
「喪主は俺がやる、お前は帰ってくるな、エマには会わせない」
携帯電話の向こうでは、まだ鏡利が何か呟いている音が聞こえていたけれど、三森はそれを思いっきり壁に向かって投げつけて、そうして携帯電話は物理的に沈黙することになった。静かで冷たいリビングで、三森のしゃくり上げる声だけが聞こえていた。長い夜だった。長くて冷たい夜だったけれど、京義は少しだけ安心していた。弱っていく母親を見ているのも、磨り減っていく兄を見ているのも、どちらももう限界だった。これで終わるのかと思ったら、少しだけ肩の荷物が降りたような気がした。そんなことはとても三森には話せなかったけれど、きっと三森も同じような気持ちだった。聞かなくても分かっていた。
(終わったんだ)
しゃくり上げる兄の体に寄り添って、京義はそっと目を閉じた。長くて暗くて、冷たい夜だった。目を閉じるとそこにエマがいて、生前と同じように優しく笑っているような気がした。それが京義にとって一番穏やかで優しい記憶だったから、今でもそれに支えられている。そのことを、誰にも言ったことはないけれど、確信的に思っていた。誰かに愛された記憶が確かにここにあったから、エマが死んでしまったとしても、誰も京義の体を温めてくれなくなっても、その世界で生きていくことを諦めたりしないでいられるのだろう。もう誰のことも信じられなくなっても。
(エマ、お前にとって、俺たちはいい息子だったかな)
そうだったとしても、そうじゃなかったとしても、後悔なんてしないと、京義は思った。
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