288 / 302

あの欲しかった愛のこと Ⅶ

それからの三森はというと、酷く冷静に母親の葬儀を取り行っていて、三森の一方的な要求を飲んだのか、それとも別の理由があるのかは分からなかったけれど、その間鏡利は姿を見せなかった。そのことを三森と話したことは一度もなかったし、三森もそれを気にしている風ではなかったので、京義はその話題には意図的に触れないでいた。エマが死んでしまっても、生きていた時ともしかしたら世界はあまり変わらないでいるのかもしれないと思ったのは、京義がある日学校から帰ってきた時、自棄に部屋の中ががらんどうに感じて、その空虚に「ただいま」と声をかけるのを躊躇った時だった。京義はゆっくりと足を進めて、一番奥の日当たりのいい、エマのための部屋だった場所に足を踏み入れていた。ベッドはいつの間にか撤去されて、京義が度々弾いていたアップライトピアノだけが、ひっそりとその部屋の中に残されていた。 京義は何気なくその椅子に座ったけれど、ピアノを弾く気分ではなかった。そういえば、毎日欠かさず練習をしていたけれど、エマが死んでしまってから、何のために練習するのか分からずに、ただその椅子の上で頭を垂れることしかしていなかったことを思い出した。京義は久しぶりにピアノを開き、鍵盤を軽く撫でた。そこに触れていると色んなことを思い出してしまって、きっとそれは辛い記憶もあったかもしれないが、そうでない記憶も少なくはなかったと思う。指を鍵盤の上に乗せたときだった。 「・・・ーーー!」 誰かが言い争う声が聞こえて、京義は椅子から降りて部屋を出た。この家にはもう、住んでいる人間が少なくなって久しい、京義がここで黙っているということは、声を荒らげているのはひとりしかいなかった。 「何やってるんだ」 「あぁ、京義」 階段から降りてきた三森は涼しい顔をして、慌てて出てきた京義をちらりと見るとそう言った。エマが死んでしまう前までの焦燥した雰囲気はいつの間にか消えていたが、相変わらず眠ることは難しいのか、それ以外の理由なのか、目の下は黒く隈で覆われていた。 「それが急に、三森くんが家を出ていくって」 「えっ」 困ったように眉尻を下げる坂下と言い合いになっていたようで、三森はそれを聞きながら少しだけ不貞腐れるようにしてふいと京義から視線を外した。 「出ていくって、なんで」 「何でって、お前馬鹿なのか。少しは考えろ。ここにいて、鏡利の加護を受け続けるつもりか、そんなことするくらいなら俺は死ぬ」 「三森くん、無茶苦茶だ。君はまだ高校生なんだよ」 「そんなこと関係ありません、俺は出ていく、京義、お前もそうするよな」 「・・・ーーー」 強い目で、相変わらずの強い目で三森がそう京義に訴えて、京義は小さく息を飲んだ。確かにここに居続けることは、衣食住の全てを鏡利に保証されているということだった。そのことについて、考えてみたことがないわけではない。エマが病気で家事の全てがままならなくなっても、自分達が毎日の生活を変わりなくおくれていたのは、紛れもなく鏡利の加護があったらだった。 「お前もそうしろ、お前、面はいいんだ、どこにでも働き口はある」 無茶苦茶だ、と京義は声に出さずに思ったけれど、三森が少しの荷物を鞄に積めて、家を出ていく姿を見ながら、少しだけほっとしていたのも事実だったかもしれない。 「坂下さん、ミリのこと頼んでもいいですか」 「・・・勿論、放っとくつもりはないけど」 「良かった。アイツ、ひとりでは何もできないから」 京義はそう呟くと、くるりと坂下に背を向けてピアノのある部屋に戻ろうとした。 「京義くんはどうするの」 「・・・俺もここを出ていきます、俺のことは心配しないでください」 「三森くんには言わなかったけど、エマさんの治療費には莫大なお金がかかってる、君たちの生活費も俺の給料も、全部鏡利さんの出してくれたものなんだよ、あの人は帰ってきたくても帰ってこられなかったんだと思う。エマさんの延命のためでもあったし、君たちのためでもあったことだ」 振り返った先で坂下は、見たこともないくらいに暗い顔をしてそう呟くみたいに言ったけれど、一体誰のことをそうして悪者にしたいのか、分からないのだと思った。坂下だけでなく、京義も、そしてここからいなくなってしまった三森にも。 「・・・分かってます」 「だったらなんで」 「分かってるけど、気持ちの問題なんですよ、多分」 言いながら京義も、坂下が決して納得できないような、曖昧なことを言っている自覚はあった。しかしそれ以外のことは言えなかった、それが真実だったから。それ以上坂下と話しても無駄だったので、扉を閉めて京義はピアノの椅子に座った。それが、エマに捧げる最後の曲だと思った。 空は段々と暮れかかっていて、京義はふと都会の狭いそれを見上げて思った。そういえば、夏衣にはじめて声をかけられたのも、この辺りを漂っていた時だったし、暗くなりかかっている時間帯だった、確か。一瞬目を細める、随分前のことのようで、はっきりとは思い出せなかった。その時もどの時も、兄は無茶ばかり言っていたけれど、それにいつも従っていたのはどうしてなのだろう。その鮮やかで痛みの多い感情が彼から溢れて、京義のところに届く度に、そうやって自分を傷つけないと生きていけないのは、彼にとってとても辛いことかもしれないけれど、派手に苦しめば苦しむほどきっと誰かが助けてくれるはずだった。京義にはそれができなかったから、そうやって手当てを受ける兄の姿を見ながら、そうはなりたくなかったけれど、羨ましかったのも事実だった。 (ミリは元気にしてるんだろうか) 兄のことも母のことも、ホテルで暮らしている間は、全くとは言わないがほとんど思い出さなかった。どうしてなのか分からない。でも思い出さないでいられた間は、京義にとって少なくとも平穏だったことは事実だった。平穏だったからきっと思い出さなくても大丈夫でいられたのだと思う。 (夏衣は) どこを歩いても同じような景色が続いている。まるで繁華街は迷路のように情報が多いだけで、京義が欲しいものは何も与えてはくれないのだと思った。目の前から歩いてきた女の子ふたり連れに、ぶつかりそうになったところをすいっと避けながら、京義は当て所なくふらふらとただ歩いていた。 (警察署には絶対にいない、ホテルにもいない、他にどこにいる?) 夏衣が他に行きそうな場所も、居そうな場所も分からなかった。夏衣はいつだってホテルにいたし、探さなくても京義の視界に割り込んできた。 「京義」 そんな風に名前を呼んで。

ともだちにシェアしよう!